小説 遺書
私はK汽船というフェリー会社に勤めている。配船、事故処理といったところが専らの仕事で、その合間にといっては妙だが投身者を扱っている。
投身者を扱うといっても、船内に残されて主の居無くなった遺留品を、連絡を受けてやって来る身内の者に引き渡すだけのことである。
その時、最後には必ずこう言う。
「民法では七年間経たないと死亡認定はされません。どうか七年間、何処かで生きているものと信じてお待ち下さい」
考えてみると随分勝手なことを言っていると思うが、それ以上の適当な言葉も思い浮かばない。それに見かたを変えるならば、迷惑を蒙っているのはわれわれの方なのだともいえる。死ぬのは勝手だが、他人の死に付き合わされることほど苦痛なことはない。真平御免蒙むる。
その日も、私はS市からやって来た父親という男に娘の遺留品を渡していた。遺留品は二十二点あった。大きな紙袋がふたつあり、ひとつには革の鞄がすっぽりと収っており、もう一方のものには途中で着替えたと思われるセーラー服が無造作に押し込まれていた。
私は鞄を開けて遺留品の一点一点を父親という人の前に並べながら、
「おいくつですか」と認ねた。無理に冷静を装っていたところがあった。
「高校の三年生です」と父親は応え、そのあとで「信じられません」と付け加えた。
「みなさん必ずそう言うんですよ。本当に思い当ることはないのですか」父親はかぶりをふった。
私は遺留品目録と遺留品とを照らし合せ、父親という人にその一点一点が間違いのないことを入念に確認させた。
預金通帳が出てきた。父親はバラパラと力なくめくりながら、最も日付の新しい箇所を私に示した。三万六千円が引き出されていた。昨日のことだから、S市からの旅費はこれから充てられたものだと察しがついた。
次に私が取り出したものは実に厄介なものだった。
女性だけが必要とするそのものが、化粧袋にも入れられず、そのままの形でひとつだけ出てきたのだった。そっとそれを差し出すと、無言で私は次のものに取りかかった。動揺をかくすことができなかつた。父親は私の差し出したものを幾分きまりの悪い様子で凝っと見つめていたが、不意に何かを思い出したように、
「男親には娘の悩み事なんて解らないものかも知れません。母親と違い、相談することもできないのでしょう」
父親はそういいながら、ゆっくりとした動作でそれを上着のポケットに収め、その後で、別れた妻という女のことを話してくれた。私は手を休め、
「なるほど」とか、「そうですか」とか曖昧な相槌を打ちながらそれを聞いていた。
彼の妻だったという女は、現在S市にある精神病院に入院している。躁鬱病の兆候が現れたのが十二年も前のことで、初期の頃だったにもかかわらず離婚に至った理由は、妻の方から、子供達のことを考えた場合の最善の策だということで、執拗に押し切られたからだというのである。結果的にはその事が病気をさらに悪化させたのではなかったかと言って、彼はいくらか後悔混じりの様子で肩を落した。
私は彼に同情した。彼の上着のポケットに無造作に仕舞い込まれたものが、父親と娘という関係を、決定的に無縁にさせているような、そんな気がして一層憐れに思わずにはいられなかった。
「おや、チェホフが出てきましたよ」
不謹慎を覚悟で私はS社の文庫本を鞄の中から取り出し、彼の眼前に置いた。彼は丁寧に「桜の園」と書かれた表紙を撫でながら手に取ると、預金通帳を力なくパラパラとやったように、その文庫本をゆっくりとめくっていた。
ところで私にはどうにも腑に落ちない不可解な点がひとつあった。
それは遺書らしきものがどこにも見当らないことだった。大抵の場合、未練がましい事のひとつや、肉身への別れの言葉などを、遺書というほど大袈裟な形式ではなくとも、メモ程度に残してゆくのが普通なのである。それがこの娘の場合、どこを探してもそれらしいものが見つからないのであった。私は隈なく、鞄の隅々まで、自分が確に仕舞い込んだと見当のつけている忘物を探すようにして、半ば躍起になってあさっていた。
そんな妙とも思える行動の途中で、私は、もしかすると、彼女はこの街へやってくるまで死ぬことなど考えていなかったのではないかしらという思いに支配された。永い経験から言って、俄にその思いは私の中で実に真実味を帯びたものとなっていった。
ある心理学者はこう言っている。人間の誕生には必ず誰かが立ち合うものだ。この人間が自ら死を選んだとき、不思議に誰かに立ち合ってもらいたいという潜在願望が働くものだと。それが果たせない場合は、死にゆく己れの心情の全てを誰かに伝えたくなるもので、これもまた人のあずかり知らぬところで働く潜在意識なのだと。後の方は私が勝手に推測したものだが、私の扱った全てのケースは、みなことごとくこの乱暴な推測に合致
するのである。
チェホフに続いて、私はそれよりも一回りほど大きい一冊の本を取りだしてテーブルの上に置いた。テキストかなにかみたいな薄っぺらな本だった。
父親はそれを見るなり、急になにかを思いたった素振りを見せ、先程よりはいくらか気を取り直した態度で、「ああ、それです」と驚くはどきっぱりとした口調で言った。
「体操の本です。あの娘は背が低いのを日頃から気にしていて、少しでも大きくなる様、そのテキストにある体操を続けていたのです。無理に信じていたようなところがあって………」
私はその本を手に取り、やはり力ない動作でパラパラとやっている父親の淋し気な姿を見ながら、先刻の彼ヘの同情がその娘へ傾いてゆくのをはっきりと意識していた。
そういう風に、事情が私の知らないところから、陳腐ではあるけれど、絡み合った糸が鮮やかに解きほぐれてゆくように、ぼんやりとある程度の輪郭を形成するように次第に見えはじめてくると、私には彼女が不意に死というものを意識し、ついにはゆったりと大海原を航走る船から身を投じてしまった事実もなんとなく理解できるような気がするのであった。
彼女の死は私には十分理解できる。そう思いはじめたとき、私は彼女が言い忘れたものを遺書という形で書いてみたいと思った。たしかに彼女は死を目の前にしていろいろなことを考え、思いを巡らし、逡巡したにちがい
ない。父親から聞いたことだけではその死には不明な部分が多い。だが、不明であればあるほど、私には彼女の死が解りすぎるほど解るような気がするのは一体どういうことなのか不思議であった。こんな自信みたいなものは余り褒められたものではない。変なからくりなど使う気は毛頭ない。だが、不安はつきまとう。おそらく、この不安はどこかで生前の彼女の不安に繋がっているもののような気もする。手掛りとなるのは母親とチェホフと体操の本だけである。
まあ、現在はなんていったらいいのかしら、生れてからの十七年間というものがとても幸せだったように思います。素敵な恋もしたかったけれど、それだって殊更悔むことなんてありません。恋らしい経験もまったく無いと言ってしまえば嘘だし、まずは上等な十七年間だった。でも、 一寸不味いなと思ったのは昨目の喫茶店でのこと。あれには本当言って参ってしまった。偶然手にした雑誌に載ってた、下手糞な随筆がいけなかったのかしら。「立山」なんて、人を騙したような気取ったタイトルもいけなかった。北アルプスの勇壮な立山連峰のことを思って読んでみると、いきなり酒の話だなんて馬鹿にしている。
津野君のお兄さんが大学生の頃、初めて登ったのが立山で、そのとき初めて立山という山を知ったのだけど、眼下にときおり思い出したようにチカリと光る眩しいほどの雲の絨毯が凝っと動かずに静上していて、ふと、自分が呼吸すると、なんだかその雲がいつの間にか形を変えているといった不思議な印象を、熱を帯びた口調で一気に語ってくれたけれど、その期待が、なんてことでしょう酒の話だなんて、あんまりだ。裏切り者。
でも、読み進むうちに、たしかに目を魅くところもあった。十五の頃の
思い出のところ。この人、歳は多分三十中頃だと思うけれど、人間なんて世代にかかわらず、十五の頃はみな同じ様に、なんていうのか手探りで懸命にというのも一寸変な言い方だけど、不良になろうとしているのかもしれない。私だって、つい昨日のことのようで、不良になろうとしていたのかどうかはもう少し歳を取ってみないと判らないけれど、きっと不良になろうとしていたにちがいないし、いや、今が不良の真最中なのかもしれません。
無理矢理お酒を春まされたのがこの人の不良のはじまりでした。それにしても、 「立山」というお酒、いかにも美味しそう。
次の瞬間、頭がぐらりときたかと思うと胸が圧迫され、胃が捩れるように苦しかった。開け放たれた引戸に掴まるようにして嘔吐した。
「立山」が弧を描くようにして飛んでいった。
初めてみる瓦に薄っすらと段差をつけて積った雪の鮮やかさが、惨憶たる我身を慰めてくれているようで自然と涙が溢れ出てきた。
東京オリンピックの翌年の十五の冬であった。
そんなにしてまで呑まなくてもいいと思うのに、それが男の不良の始りなのかもしれません。
この人は、この後、二年で本当に立派な不良になってしまうのだけど、東京オリンピックの翌年の十五の冬というのが、私にはなにかしら妙に引っかかるものがあり、魅かれてしまったような気がしてなりません。
父と母が一緒になったのが東京オリンピックの年でした。マラソンに出て、勝てなくて、そのあとで自殺をしてしまった自衛隊の人の話を父から聞いたことがあるけれど、そのとき、あまりにも可哀相で、思わず涙ぐんでしまったのを、私はいまでも昨日のことのように鮮明に思い出すことができます。あの頃の本当に幼なかったときの私を思うと、何故か自分自身が愛おしく、今の私が切ないくらい詰らなく思え、どうして、何に対しても純粋に涙することができなくなってしまったのか、悲しくなってしまいます。
不味いなと思ったのは、東京オリンピックの頃の父や母を思い出したからではありません。
その雑誌を読み終えてから、私は何をするでもなく、ぼんやりと、すっかり冷めてしまったコーヒーカップの、それても微かに感じられる温もりを無意識に探っていたのてす。それがそのときの私には殊の外重たく、意味深いもののように思え、終いには両の掌で、ほとんど失くなりかけている温もりを懸命に確認しているのでした。
私は、紙袋の中に隠すように仕舞い込んでいる学生鞄を、周りの客達に悟られないようにしながら開いて大学ノートを取り出すと、その新しい印刷の匂いのするページの中頃に、遺書と書いてみようと思ったのです。
不味いというよりも、泣き出したいくらいに悲しく思い、しまったと悔やんでみたのはこのときでした。遺書の「遺」という字がどうしても思い出せないのでした。
有名進学校に通っているといってはみても、所詮、私は十七年間の生しか生きていないのだということを改めて思い知らされ、暗澹とした気持に塞ぎ込んでしまったのです。これから、立派に死んでみせようとする勇敢な誇りに満ちた小さな自尊心さえも、すっかり萎え凋んで本当に泣き出したいくらいでした。
「立山」ごとき下手糞な随筆に負けじと勇んでみたのですが、遺書という文字すら書けなくては話になりません。結果は無残にも私の完敗でした。私は大学ノートをエイッとばかりに畳んでしまうと、真直ぐに視線を、丁度、私の正面に掛けられている、なんとなくだらしのない裸婦を描いた画に向け、やはり、何を考えるでもないぼんやりとした状態で呆けていました。そして、その画の右横に掛けられている風景画にそれとなく目を向けたとき、私はその画の中にある風景にひょいと迷い込んでしまったような不思議な錯党を覚えたのでした。「あっ」と微かに声を洩してしまったのを隣の客に気づかれ、じろりと恐い顔で睨まれました。
私はこの画を知っている。いや、このカンバスの中にひっそりと息づいている風景のひとつひとつ、そこに流れている透明な空気の微妙な流れの匂いさえも私は知っていると、そのとき感じたのでした。
私はいつしか母を思い出していました。やはり、「立山」は私にとって、小さな自尊心を傷つけたり、乾いた空気のあの頃の、母と私の想い出の原景になってしまった風景のひとこまを鮮明に切り剥がして強引につきつけたり、いけないものでした。
母は私が五才の頃にその兆候をみせはじめました。父の膝の上で遊んでいた私が、雑誌をパラパラとめくっていた母のところまで行き、悪戯半分に抱きつこうとしたとき、いきなり、母は私を突き飛ばしたのでした。私
はもんどりうってゴム鞠のようにひとつ回転し、その勢いで頭を茶箪笥に痛いほど打ちつけたのでした。泣き喚く私を父はやさしく抱き上げ、五才の私をあやすにしては恥ずかしいほど幼稚な言葉で、たとえば、バアーな
んて可笑しな顔を作ったりして繕っているのでした。そんな父と私に気を遣うでもなく、母は凝っと雑誌に見入っていました。私はそんな態度の母を見ると、頭にできた瘤の痛さよりも、無性に腹立たしさが込上げてきて、そのあとで急に惨めな思いが胸を痛くして、つぎにはなんだか訳の分らない恥ずかしい気持になり、一層、激しく泣き喚いて父を困らせているのでした。
あれが、矢張り兆候といえば兆候だったのです。
父がめずらしく酔って帰宅したとき、母は鼻唄を唄いながら、つい先程まで、「お父さんが帰る前までに沸かしておきましょうね」といって用意していた風呂に、父をすすめるでもなく、どんどんと自分で這入って行くのでした。私は狐につままられたような気持で、何が何だか判らなくなってしまい、ビールの詮を抜いてグラスに注ぎ、美味しそうに呑んでいる父を凝っと見ていました。
不意に父と目が合ってしまい、そのとき、父はふっと何かしら寂しそうな顔になって私に言ったのでした。「麻美」。父はたしか私をそう呼んだようでした。いつもは麻ちゃんと呼んでくれているのに、麻美と呼ばれたことがなんだか母が鼻唄を唄いながら浴室に這入っていったことと関係があるのかしらと妙な気分で、私はやはり、凝っと父を見ていました。
「お母さんは、今、病気なんだから解ってやろうね」
そのあとで、父ははっきりとそう言ったのでした。
それからのことは、父が何を言ったのかほとんど憶えていないけれど、母が病気なんだということだけは、私の小さな胸の中で、燻り続ける焚火の燃えカスのように、どこか居心地悪くブスプスとなおも燃え続けているようでした。
あのあとで、父は隣りの部屋で泣く勇樹をあやしに行ったのかもしれません。あの頃の勇樹は可愛いい赤ん坊で、笑っている勇樹の顔に、私が幾度も幾度もキスをしてやると、もっと、もっととでもいうように、小ちゃな
紅葉のような掌を私の口唇に押しつけてくるのでした。
紅葉にしては甲のところがお餅のようにこんもりと膨らんでいて、私は今度はその掌を取ると、ゆっくりと口唇を押しあて、ちょっと乳くさい柔らかい感触を私のものとして愉しむのでした。私はあのお餅のような小っちゃな掌が大好き。母が病気なんだと父から聞かされてから、頻繁に母方の祖母が来るようになり、私の勇樹は取られてしまったけれど、それでも、私は祖母の隙をみては内緒で勇樹の笑っている顔に近づいて行ったものでした。
勇樹はいま頃何をしているのかしら。食事はもう済んだのだろうか。サッカーの練習は真面目にしているのかしら。私がこんなS市から五時間もかかる港町で、時たま物悲しげに汽笛の聞えてくる港町の喫茶店で、小さな自尊心を傷つけられながら、寂しい風景画に囚われの身となっているというのに、一体、勇樹は何をしているのかしら。そう思うと、私は涙を流すことなんてとうに忘れてしまっているというのに、本当に真底から昔のあの懐しい純粋な涙が甦ってくるようで、嬉しいやら悲しいやら、久し振りに大きな声で泣き喚きたくなってしまうのでした。
父と母が離婚したのは私が中学に上ったときで、勇樹はそのとき小学校の二年生でした。あとで分ったのだけど、別れ話を最初に持ち出したのは母の方からでした。
母は自分が病気だということで、こんなことってあるのか私には分らないけれど、気分の良いときなど、自身で感じていたのかも知れません。それとも、母方の祖母が、気分の良いときの母に向って、こっそり進言し、父に言わせたのかもしれないけれど、母の方から父に離婚を申し出たのはたしかなことなのです。
私は一度、勇樹を連れて、そんなに遠くない所にある母の実家を、パスを乗り継いで、父には内緒で、でも以前から父は会いたいときにはいつでも会いに行って構わないと言っていたので、思い切って訪ねてみたことがあります。以前、母と一緒に来たときとは門構えから、そしてそこから踏み石を伝って玄関へ向うまでの両脇に整然と刈り込まれている生垣や、なによりも、あんなにきれいに思えた真紅に色づいたつつじの花までもが、どこか様相を一変してしまったようで、よそよそしい感じがするのでした。
私は勇樹の掌をしっかり握って玄関の前に立つと、呼鈴を三度軽く押したのです。内の方で人の動く気配がして、一瞬、私は母が出てきたらどうしようかと思いました。そのときになって、来なけりゃよかったという迷いが微かに私の胸の中でチッと、まるで蜂の針か何かで刺されたような鋭い痛みとなって起って、私の目の前は真暗になるのでした。
ゆっくりとドアを押し開けて出て来たのは祖母でした。
なぜか分らない安堵した気持が余裕といっていいのか、池の中に放った石の周りから波紋がゆらりと幾重にも拡がってゆくように、私の体内の隅々まで確実に伝ってゆくようでした。
「麻美じゃないか。まあ、勇樹も一緒かい」
そう言って祖母はちょっと驚いた様子で、私と勇樹を交互に見ながら、家の内に案内してくれました。
家にも貌があると何かの本で読んだことがあるけれど、そしてそれが人間の顔のようにどんどん変ってゆくものなのだと、そのときは私には何のことをいっているのかちっとも分らなかったけれど、今想ってみると、あのときの祖母の家は、庭の様相がどこかよそよそしい感じがしたように、家そのものもなんだか私にとっては重苦しい空気に包まれているようで、準備体操をしないでプールに飛び込んだときのように、身動きが取れずに苦しい感じがするのでした。
六畳の和室で伏せている母が見えました。母は余程気分が悪いのか、布団の中で凝っと身動きもせず横になっていました。そして、私達に気づくと、私の期待に反して眉間に皺を寄せるような苦しい表情になって、「うっ」
とひとつだけ呻いたような声を洩らしたのでした。私は心配になり、枕元まで飛んでゆき、「大丈夫?」と声をかけようとしたときでした。母の掌がサッと反射的に鋭い動きをみせたかと思うと、次の瞬問、その掌は勢いよく私の左頬をとらえているのでした。ピシャリと乾いた音が薄暗い部屋の中に響きました。映画のコマが切れたときのように、私の時間は、そこで一端プッツリと切れてしまったようでした。
ああ、私はもうこれ以上書きたくない。どこの誰か分らない他所の人が、この大学ノートを掌にしたとき、なんて思うのかしら。
「世の中には非道い母親もあったものだ」
そして、返す刀でこうもいうに決っている。
「娘も娘だ。何故、こんなことまで書いて、それも遣書だなんて気取ったポーズで、いかにも澄ました態度で病気の母親をいじめなけりゃならないんだ。やはり、娘なんて持つもんじゃない」
おっしゃるとおりです。私は悪い娘です。ああ、泣き出したいくらい。でも、私は書かなければならない。今頃になって、おかしなもので、ペシャンコにされても負けないぞというような勇気みたいなものがどこからともなく湧いてきて、これも死にゆく者の我が侭と思って、どうか、どこの誰かは分りませんが、このノートを拾われる方許して下さい。
私は母にぶたれたままの姿勢で、相変らずコマ送りの停った映画の場面のように、だらしなく、ただ、凝っとしているだけでした。祖母が慌てて母に駆け寄り、二言三言、私には聞きとれない小さな声でなにやらいいながら、母を押さえつけているのが分りました。いくらか気を取り直したような母を見て、私は今にも泣き出しそうな怯えた様子の、微かに震えが伝ってくる勇樹の掌を力を込めて握り返しながら、凝っと俯いていました。そのあとも小刻みに震えが勇樹から伝ってきたけれど、そのとき不意に、この震えは勇樹のものではなく、五つの頃の私が、母にゴム鞠のように無残に突き飛ばされて、頭を痛いはど強く打ったそのときから、ずっと私の中で微妙に振幅していた、私の震えなのだというような気がしてなりませんでした。すると急に、私は五つの頃の痛みを思い出し、気持はあのときのように何故か昂り、腹立だしさと惨めさと、こんな言葉憶えたばかりで十七の娘には気障かもしれないけれど、含羞といっていいのか、わけの判らない恥ずかしさが渾然となり、やはり、あの頃のように思い切り泣き喚きたい衝動にかられるのでした。でも、あのときと違って一層切ない思いがこみ上げてきたのは、私の傍に父が居無いということでした。私が泣き喚き、もしそこに父が居たなら、きっと思い切り私を強く抱きじめながら、気の利いた慰めの言葉をかけてくれるにきまっているけれど、目に見えない底の方から家がその貌を変えているようなこの部屋で、祖母は余りに頼
りなく、私はここで泣いてはいけないと、曖昧な不安の中で精一杯、自分に言いきかせているだけなのでした。
「何しに来たんだい」
今でも私には信じられません。何しに来たんだいという尋問といっていいのか、それくらいのことはきっと言われるにちがいないと覚悟はしていたけれど、私が吃驚したのは、その声の奥底に、ヒヤリとするくらい、まるで研澄まされた鋭利な刃物がなにかを不意に頸筋に押し当てられたときに、背筋を一瞬にして駆ける気味の悪い感触、あれに似た冷たい響きが潜んでいたからなのでした。
ああ、母はまだ病気が治っていないのだ、私は努めて冷静を装いながら、自分に言いきかせようとしました。
なんてことでしょう。中学に上ったばかりだという小娘が、努めて冷静を装うだなんて。本当に恥ずかしいことです。母に申し訳がありません。必死に何かを堪えていた。ただそれだけなのです。
でも、母が祖母の傍らで、横に伏せったままのその姿勢で、かすかに「うっ」と先ほどよりは少し苦しそうな声を洩らしたとき、私には俄にその病状の輪郭みたいなものがはっきり感じられたようで、真底、悲しい思いがどこからともなく突き上げてきて、ぶたれた痛みなんかより幾倍も大きな痛みとなって私を苦しめるものだから、そこで私は初めて泣いたのでした。啜り泣くというのか、何かを圧し殺したような、実に中学生らしくない、可愛気の無い泣き方なのでした。少女には少女の泣き方というものがあって、そんなものまで私はいつの間にか、どこかに置き忘れて大きく
なったような気がいたします。
「あなた幾つになって? 私と一緒だなんて一寸可哀相な気がするわ」
ついこの間、チェホフの「桜の園」という演劇を観に行った帰りに、真由美から言われた言葉です。あんなに仲良しだった真由美から言われるくらいだから、私の知らぬ間に置き忘れてきた思春期の宝物みたいな大事な財
産の喪失は、余程、尋常なものではないにちがいありません。でも、私はあの東京からやってきた来たという劇団の役者の中で、本当にロパーヒンを演じた男に惹かれてしまったんですもの。ロパーヒンの目というのは、ああいう役者じゃなけりゃ絶対にいけない。私は今でも確信を持って言えます。狡猾な目は駄目。卑しすぎる目も駄目。特に優しすぎる目というのはもっともいけない。何と言ったら良いのか、あの役者の目でなければロパーヒンは絶対にいけないのです。そのことを真由実にどうしても伝えたくて、こっそりおしえてあげたのに、あんなに冷たい態度で、「あなた幾つになって?」だなんて、あんまりというものだわ。「何を見ていたのか」だなんて、そりゃ、一家が崩壊してみんなバラパラになって行く終いの場面や、桜の木に、ついに斧が打ち込まれ、物悲しく響きわたる、つまりなんて言っていいのか、人生の末路を象徴している効果音なんかも暗示的でそれなりに切ないのだけど、やはり、私にはロパーヒンのあの目には敵わないのです。真由美がいうように、私は十七にしては可哀相な女の子にちがいありません。
真由美のことはあとで書かなければなりません。いまは私の母です。
私はそのとき、はっきりとなんて言っては生意気だけど、母にさよならを言ったように思います。あの冷やかな母の声を、少女らしくないなにかを圧し殺したような啜り泣きの中で確信しながら、きっと、母は治らないにちがいないと勝手に決めこみ、二度と逢わないほうが、母のためにも、私のためにも善いことなのだと、自分に言い聞かせていたように思うのです。勇樹は私が母に替わって育てて行こう。こんな思い上がった、中学生にしてはまったく可愛気のない気持ちの昂りに自分自身が震え、不尊な決意を固めたのもこのときでした。私の小さな躰のどこにこんな奢りみたいなものが隠されているのか、今、思ってみても、本当に母に申し訳ないやら、恥ずかしいやら、一体、女というものはいつ頃から女なのかしらと不思議に思え、そして悲しくさえなってしまいます。
女の敵は女。母の敵は娘。余り老成たことを言うものではありません。
私はその日の夕方になって家に戻ると、お腹を空かせた勇樹に何か料ってやろうと思い、台所に立ちました。
ふと気がつくと勇樹がすぐ傍に立っていて、「姉ちゃん、痛くなかったかい」と私の顔をまじまじと、老成た顔になっ
て、何か不思議なものを見るような態度で覗き込み、訊ねるのでした。そのあとで、「ボクもう行かないよ」といって不貞腐れた仕草をするものだから、私は何故か分らないけれど顔が赤面してしまい、胸の中では押さえきれないものが不意に湧き立つようにざわめき起り、こんな小さな弟までもが切ない思いをしているのかと思うと、ついいましがた、母方の所で圧し殺したように泣いていた自分と異って、ほんとうに、ワッと思いのたけ泣きたくなってしまうのでした。
父がいつもの時間に帰宅したとき、このときも私は思わず泣き出しそうになりました。純粋に涙することなんてとうの昔に忘れてしまったようなことを言ってはみても、いま思うと、私はこの十七年間というもの、泣いてばかりいたように思います。父だって、弟だって私のことを泣き虫って呼びます。でも、私はこれだけは自信を持っていえるのです。わずか十七年間の生だったけれど、私は決して人を泣かせたりはしなかった。笑わせることはあっても、人を悲しませることだけは一度きりだって無かったと誓っていえるのです。
なんてことでしょう。そんなこと自慢にもなんにもなりません。いま、私は父や弟をほんとうに悲しみのどん底に引摺り込もうとしているのですもの。慈悲深い顔を装い、信用して寄って来た蝿蚊を待ってましたとばかりピシャリと打つ、あれと同じです。十七年間、人を騙してきたのも同然です。こんなことなら、十七年のうち、一年に一ぺんづつ嘘をつき、十七の嘘で自分というものを塗り固め、ごらんなさい、ここに居るのが紛れもない、出鱈目を生きているほんとうの私ですといった方がまだましというものです。
私は帰宅した父に、母方の家を訪ねたことをいい、母の見たままを伝え、そして、家の貌といぅものの変り方の激しさに驚いたことまで、まるで何かに憑かれたときにするように、懸命になって話しました。でも、母にぶたれたことだけは何故か言えませんでした。これだけは、母と私と弟だけの秘密にしておこう。それが母のためにも善いことなのだと、漠然と思えたからなのです。
心の中で母にそっと言ったさよならの言葉が、母にぶたれたことを父に報らせることですっかり解ってしまうのではないかという思いもして、それだけは言わないようにと、そのあとで弟にもきつく命じたくらいです。
母はその後問もなくして家を出ました。三時間も離れた奥深い山の中にひっそりと、ほんとうに淋しそうな所に建てられている病院に移ったのでした。母が病院ヘ移るその日、祖母から父へ電話があったのを私はいまでもはっきり憶えています。父はそっと受話器を置くと、疲れたときに見せる少しだらしない姿勢になってソファに身をあずけ、チラッと私の方を見て、それでも真面目な表情だけは崩さず、そのことを話してくれたのでした。そして、高いからといって仕舞っておいたウイスキーの封を思い切あけると、乱暴にグラスに半分程注ぎ、一気に呑んだのでした。あんなに乱暴な父を見たのは初めてでした。そのあとで急に思い出したように一枚のレコードを取り出し、最初はそれを凝っと眺めていたのだけれど、なにかしらのろい動作でそっと針を落したのです。
私には父が何をかけようとしているのか解っていました。
サムディ・プリンス・ウィル・カム。いつか王子様が。
思ったとおリビアノとペースがゆっくりとお喋りを始めました。私はそ
の曲を聴きながら、父はほんとうにいまのいままで母のことを、こう言ってしまえばお前は老成た子だなっていって頭をコツンとやられ、父にからかわれそうだけど、愛していたんだなあって思わずにはいられないのでした。
私が産れる随分前から父と母はこの同じ曲ばかりをきっと幾度となく聴いていたにちがいありません。こんなこと解ったように書いてしまえば笑われそうだけど、母が私達のもとを去って、父がふと思い出したようにレコードに針を落とすとき、きまってこの曲ばかりを聴くものだから、私はいつだったか父にその理由を訊ねてみたことがあるのです。お母さんとの思い出の曲とだけ教えてくれたけれど、どういう思い出がこの曲の中にあるのかは話してくれないのでした。
「いつか王子様が。麻美のところへは、いつになったら王子様が迎えに来るのかな」。父はそう言って目を瞑ると、しみじみと懐しい思いに浸るように、その曲の中へ入って行くようなのでした。私はそんな父を横目で見ながら、きっと母の病気が快くなったら、父は母方の家まで、王子様にしては少しだらしなく突き出たお腹を揺りながら、母を迎えに行くにちがいないと確信めいたものが急に湧いて来て、そのとき、何故かしら嬉しくなったものでした。
いまはただ、母の病気が一日でも早く快くなるよう祈るほかはありません。ああ、私はもう疲れてしまった。王子様を待っているだけの気力もすっかり失せてしまい、いまはもう楽になりたいだけ。昨日泊った旅館で私はつくづく自分の愚かさに気がついた。いくら一生懸命になって体操に励んだからといったって、やはり無理なんだ。身長を一センチ伸ばそうとすることは、その数十倍も滑稽なんだということが。真由美の言ったことは本当にあたっている。でも、真由美にも一寸考えてみてほしい。十七才の娘の悩みというものは、所詮、そんな風に他愛のない、滑稽でいて、どこかにいたずらっぽさを秘めた臆病なものじゃないかっていうことを。
学校の帰りに、真由美、あなたのお家に寄って、あなたのお母様から手造りのケーキを出されたとき、咄嗟にこれはいけないと思いました。生意気言ってごめんなさい。ケーキの味なんてもうすっかり忘れかけていたんですもの。
あなたのお母様は、いつまでも手をつけないでいる私を訝しく思ったのか、曖昧な一瞥をくれて、それから席をお立ちになり、私は心底恥ずかしく、申し訳ない気持で一杯になり、お母様より先にこの席を立ち去るのは私の方なんだという思いがして、悲しくてたまりませんでした。あの見るからに美味しそうな、真紅な苺のポツンとのったケーキの一片を食べただけで、それだけで私の一日の体操がまったく無駄に終ってしまうんですもの。
どうか私から体操を取らないで下さいね。
そのあとで、あなたまで私をそれは怪訝な目で見るものだから、そこで私は初めて鞄の中から、あのときの私の顔は羞恥で引き撃っていたのじゃないかしらと思うけれど、体操の本を取り出し、あなたに見せたのです。秘事なんて言葉、なにかしら卑しいひびきを持っていて、堪えられない気もするけれど、あなたに対して、私に秘密めいたものがあるとするなら、あの体操の本だけ、唯の一点それだけです。どんなに恥ずかしい思いをして、あなたに見せたか解ってもらえるかしら。私はあなたの顔を見るのも苦くて、そっと俯いてしまいました。何も覚えていません。あの日、どうやって帰ったのかも思い出すことさえできないくらいです。
あなたは、イラストの入ったあの体操の本をどんな気持でご覧になっていて。
私にはすっかり過去のことのようで思い出すこともできないけれど、一瞬、あなたが目を瞑って、悲しそうな表情をしたのだけは、どういうわけか憶えています。
ドイツのウィルヘルムなんとかという医学の先生の本なのだけれど、そんなことはいまはもうどうでも良いのです。私はもう少し身長が欲しい、ただそれだけなのですから。ウィルヘルム先生でなくとも、私をあなたくらいにすらりとした体型にしてくれる人なら、どこの誰でも、それが、たとえ腰の曲ったうちの学校の用務員のおじさんでも構いはしないのです。でも、ウィルヘルム先生には悪いけれど、ドイツの人ってそれはど背の低い人が多かったかしら。可笑しいわね。
真由美、私はあなたが好きでした。好きだからといっても、どうか悪くとらないでね。あなたの細くしなやかに均整のとれた躰が好きでした。くせのないストレートな髪が、背後から見ると豊かに肩をおおって、そこからきゅっとしまった胴までゆったりと伸びていて、あの髪は、真由美、あなたの躰だけのものです。髪だけじゃない。端整な面立ちも、恥ずかしそうに小さくふくらんだ胸も、ミニスカートで明るく振舞うときの透きとおったような白い足さえも、全てが真由美の躰だけに許されたもののような気がするのです。
いまだから告白するけれど、私はあなたを思っただけで、熱くたぎるような、どこからやって来るのか分らない嫉妬の念を押えることができず、幾日も眠ることができないこともあったくらいです。
週に一度、教会に通って自覚したことといえば、最早、私は罪深き女だということくらい。
本当言って、死にたくてこんな港町まで来たのではありません。学校の帰り際、あなたが反対のホームで津野君と何やら楽しそうに立話をしていて、そして二人がまったく行先が違うというのに、平気でその列車に乗り込むのを見て、私は驚きというよりも何だか初めて経験する愉快な気分になってしまい、猛スピードで進入して来て、私の眼前でビタリと、まるで約束でも出来ていたかのように停車した列車に、私はあっさりと乗り込ん
だ、それだけのことなのです。列車に乗り込んだ後で、私はアメリカの新進作家が書いた「運命の列車」という小説のことを思い出しました。自分でも可笑しいほどでした。
まるで私はあの小説の中のヒロインにでもなったような気分で、凝っと入り口の扉の前に立停まり、ゆっくりと流れては消えてゆく、それはいままで見たことのない異国の風景を思わせる、窓の向うの映像を追っていました。
あの小説の中に登場する主人公は勿論、悪人という人が誰も出て来ないというのは、私には困ったことでした。何故、あんなにも人々の生活は、善良な人々の生活は悲劇でがんじがらめにされ、苦悩しなければならないのか不思議に思えてなりません。世の中にはたくさんの悪い人がいるというのに、あそこまで善い人達を善い人で描いておきながら、後になって、善い人たちだから彼等は本当に苦悩しなければならないだなんて、私は読み終えてから、真実とか正義とかが裏切られたようで、この新進作家が急に嫌いになりました。あんまりです。父や母の苦悩も善人であるがためなのか。こんなことを、この新進作家に問いたいくらいでした。
なんてことでしょう、父や母のことを思い出すなんて。
私は入り口の扉の前になおも立停ったまま、外の景色を追っていました。そのうち、次第に景色が霞んでぼやけだし、しまいにはすっかり歪んだものとなり、私は危くその場に倒れそうになったのです。はずかしいことです。
小説「運命の列車」の終りのところに出て来るヒロインそのものでした。でも、小説と大違いのところがあります。そのヒロインを別の車両で待ち受けていた恋人が出て来るところ。ただ、ぼんやり私のように窓辺に凭れ、うつろいゆく景色を見ているだけでは、あのようにうまくはゆかないものなのかもしれません。もし、この先に興味がおありなら、津野君に貸しているので読んで下さいね。気に入ってくだされば、あなたにさしあげます。
そういえば、チェホフの「桜の園」を見終えて、私はあることに気づきました。こうしてみると、案外、真由美、あなたが言うほど、私はロパーヒンの目だけに狂っていたわけではないようです。あのトロフィーモフを演っていた役者の人はどこか津野君に似て、優しく、弱々しい感じのする人でしたね。どうも私は気が浮ついていけないけれど、津野君のロパーヒンはきっと佳い「桜の園」になること疑いなしです。
津野君がトロフィーモフなら、真由美、あなたはアーニャです。あのお芝居の終りの方も、たしか列車に乗ってみなが、何処だか忘れてしまったけれど、新しい土地へ夢膨くらませ、いや、それぞれに挫折し、落胆してだったかしら、旅立つところだったように思います。その後で、桜の木に斧が打ち込まれる音が悲しく響きわたり、一瞬にして舞台が暗くなり、暗示的に終るのだけど、「いざ、我が新天地へ」こんな台詞はなかったかしら。
嘘です。出鱈目です。そんな台詞なんかありません。私がいまでもはっきり憶えている台詞は、トロフィーモフとアーニャの、みなが失望し、落胆しているというのに、驚くほど生々とした、晴れがましい颯爽とした会話なのです。それはあなたたちが、私の立っている反対のホームで手を取り合って楽しそうに列車に乗り込んで行ったときに交わされた会話じゃなかったのかしら。
アーニャ : さよなら、わたしの家! さよなら、古い生活!
トロフィーモフ : ようこそ、新しい生活。
そして二人は退場するのだけれど、いま思ってみると、アーニャの台詞は真由美の台詞ではなく、あなたたち二人を見送って、何が何だか訳が分らなくなり、エイッとばかりに停車した列車に飛び乗った、私の合詞によ
り近いもののような気もするのです。
本当言って私がチェホフなら、真由美や津野君には悪いけれど、天上の声として、物悲しく響きわたる斧の打ち込まれる音にだぶらせて、あの一瞬にして闇となった舞台めがけ、次の一節を壮厳にして意地悪く、挿入させるにちがいありません。
「苦悩せよ、自ら、汝ら」
ごめんなさい。
私はその夜、中学生のときに修学旅行で一度泊ったことのある温泉宿を探しあてました。そして、そのときまでほんとうに私は死ぬ気などまったくなかったのです。
あくまでも、私は「運命の列車」に登場する、どこかぎごちないヒロインのつもりを装っていたのですもの。
私は夜になって食事を済ませると、あの頃は迷路のように思えた、赤い絨毯のきれいに敷きつめられた、幾本も交叉して続いている廊下を歩いてみたのです。
ヒタヒタとスリッパを通して伝わる絨毯の感触は、まったく以前のものではありませんでした。ああ、どこかがちがっている。不安が足許から一気に躰中を貫き、私は身震いしました。
ああ、もう駄目だ。
私はここまで書いてきて、ふと溜息をついた。そしてペンを放り投げると、天井を睨みすえた。何故かしら苦しい思いがして寝返りを打つのも困難だった。天井にできた大きなシミを呆然と見ながら、この小説がこれ以上進展することの不可能なことを思い知った。
私はこの後、彼女を修学旅行で一度泊ったことのある旅館に泊め、その迷路のように入り組んだ赤い絨毯の敷きつめられた廊下で、深く悲しみ、うちひしがれ、嗚咽する場面を挿入し、一層、十七才の不安を増幅させ、そして次に大抵の旅館にある大浴室に導き入れ、決定的な混乱を引き出すことで死を選択させようとした。
大浴室の場面は相当具体的に煮詰ったもので、こんな風になるのであった。
湯から上った彼女は、脱衣場にある等身を写すことのできる大きな鏡があることに気づく。以前には確になかったものなのだが、そこに写し出された自分の等身を見て、それは勿論裸の姿なのだが、はっきりと死を意織するのである。
鏡の中の自分の裸身の丁度お乳のところにヒビが走っており、ここらあたりをなんとか死にゆく者の美意識に結びつけたいと考えていた。
十七才の少女が死を選択するのであるから、これくらいの美意識を持たせなくては小説などにはならないのである。
ところが匙を投げた。これ以上の進展の不可能を思い知った。それは何故か。善良な読み手ならすぐに思い当るところがあるかもしれない。おそらく、その方達は冒頭に私が書いた、父という男と私の会話が事実である
ことを暗に推量し、いたいけな少女の死をこれ以上冒涜することは許せないとかたく思い込み、作者である私も漸くそれに気づいたにちがいないと安堵してのことかもしれない。
たしかにそれもある。だが、それが全てではない。
では一体何が私を躊躇させたのか。
私はあるひとに、それは男だったか女だったか忘れてしまったが、あなたは成年の女子より、どこか少女に執着しているところがあっていけないといわれたことがある。対象がその様では小説もおそらく詰らないものだろうとも言われた。
私は反論する気になれなかった。
流石に住い小説が書けないという指摘が当っていたからだ。
それなら、いっそ少女自身になりきることで佳い小説が書けないものかと考えるようになった。片意地張った開き直りがどこかにあって、大袈裟にいえば、毎日そのことで,申き苦しむようになっていた。多分、十代の少年少女達の休みなく揺れ動く心理の妙や、不安に萎縮してしまった感情の閉塞の行きつくところを理解していたという自負みたいなものが、どこかにあったからにちがいない。
たまたま、そのときにある少女の死を直接身の近いところで経験した。
私はその死に憐憫の情抑さえがたく、一方では先の男だったか女だったかが言った、「あなたの小説は詰らない」という批評に対抗するよい機会が到来したことの興奮で身を震わせた。
ところが、結果はごらんのように大失敗である。
素直にいうなら、これ以上の進展の不可能な理由は、この主人公の中に、私が没入すればするほど、彼女の選択した死というものが曖昧にぼやけだし、彼女の真実までもが曲がって伝わりかねなく、彼女の方で頑なに私を
拒否しているように思えたからなのである。
何故、彼女が死ななくてはいけないのか、私自身そこのところが皆目分らなくなってしまったというのが本当のところである。
それだけのことだ。実意識だけで十七才の娘を死なせてはいけないのだろうし、また、少女だからといってそんなに立派な美意識なども今の彼女等は持ち合わせていないのかもしれない。作者の美意識をそのまま少女に押しつけてはいけない。
もうこれ以上、私は何もいいたくない。いえばいうほど嘘が勝手に走り出しそうだ。言分けはやめる。
つまりこの小説は未完などという生易しいものではなく、大失敗作なのである。
この先の彼女の死については賢明な読者が好きなように考えればよい。
それで作者は充分満足だ。
<了>
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コメント
面白く拝見させて頂きました。
文章の方向性は違うものの、ココログで同じように小説を発表している者です。
告白調の文は良いですね。どこか、他人の心中を覗き見る後ろめたさのような感覚を覚えました。
あの、一つだけ。
恐らくはテキストエディタで編集なさったものをコピペされたのでしょうが、時折、改行に失敗している部分が見受けられました。
気になるほどではありませんでしたが報告までに。
それでは失礼しました。
投稿: 甲斐ミサキ | 2003.12.18 01:11
ご丁寧なご感想、ありがとうございます。参考になりました。
ほとんど未熟な仕上がりで、ご指摘のとおりコピペの拙さからから迷惑をお掛けしていたりして。。。
折を見て編集し直してみたいと思います。
ココログもまだまだ未熟。
トラックバックなんかももう少し勉強してみたいと思います。
これも上手くトラックバックされるのか不安だったりします。
今後ともよろしくお願いします。
投稿: 信天翁 | 2003.12.19 11:03
こちらこそよろしくお願いします。小説を発表されている方はまだまだ少なく、手探り状態なので。
トラックバック確かに分かりづらいですね;
順序として、まず自分のログに記事を書き、
《相手先のトラックバックURLを入力》欄に、相手先にあるトラックバックしたい記事のURLを記入。→送信
で可能になると思います。
投稿: 甲斐ミサキ | 2003.12.19 17:35
トラックバックの説明、ありがとうございます。
解ったようで解らないような。。。
ここで、こうして書き込んでいるコメントとは別物であることは何となく理解したような。
縁のないものと思い、マニュアルを読み込んでいなかったのですが、今度、ゆっくり読んでみることにします。
深いですね、トラックバック野郎。
投稿: 信天翁 | 2003.12.19 22:33
トラックバックしてくださったみたいですが、残念ながら表示されませんでした。
以前のコメントが誤解を招いたかもしれません。
『小説 遺書』を例にとると、
まず(このページでいえば右上にある『最近の記事』より)、記事を選択。
その記事の一番下に《この記事のトラックバックURL: 》という欄があり、
そのURLを新規記事作成時に貼り付けるわけです。
おそらく信天翁さんは、ブラウザのアドレス欄に出ているURLを貼り付けたことにより、トラックバックが出来ていない状態にあるのでしょう。
折角の感想が読めないのは残念ですので、修正をお願い出来ればと思います^^;
投稿: 甲斐ミサキ | 2003.12.20 01:49
何度もスミマセン。トラックバックというのは、
相手方記事の《コメント》とに記入することではなく、
あくまでご自分のログ内での新規記事として作成するものです。
連投煩わしければ抹殺しといてくださいネm(__)m
投稿: 甲斐ミサキ | 2003.12.20 02:11
初めまして、るるがと言います。
小説中心のブログを開いています。
甲斐ミサキさんとかぶってしまいましたが、わたしのブログでは「インターネットで読む小説」という事で、インターネット上で読める小説を紹介しています。この度、小説を何本かご紹介させて頂きました。
紹介文はわたしは読んだ上で考えた物なのですが、著者コメントを載せたい、他にも不具合などありましたら、言って下さい。
良ければ、見に来て下さいね。こちらのブログもちょこちょこチェックさせて頂きます。
投稿: るるが | 2004.12.24 22:12
コメント、ありがとうございます。
甲斐さんに変わっての小説紹介サイト運営、頑張ってください。
小6ですか、凄い!
将来は、吉本ばななか川上弘美ですね。
今度、サイトをゆっくり巡回させていただき、小説を拝見させていただきます。
ご奮闘を。。。
投稿: 信天翁 | 2004.12.25 17:11