創作 燭台は高きに置け
木暮の会社には二人の病人がいる。
ひとりはもう半年も会社に出勤していないし、もう一人はおよそ
一週間になるところだ。どちらも、朝目覚め、さて出勤でもする
かといったところで、足が動かなくなる。正確には、会社に向か
って歩くことが困難になるらしい。部署が違うからなんともいえ
ないが、我が社とはそんな雰囲気の会社らしいのだ。
心の病、世間ではそう言っているようだ。
「どうも熱があるようで・・・」
木暮は電話口で懸命に嘘をつく。
「風邪かい?」
「なんとか一日で治したいと思っています」
上司は疑う様子もなく、大事にしてくれよといって電話を切った。
木暮は、部屋の南側に面して置かれているベットに横になった。
何をするわけでもないが、傍に置いてある文庫などを手にし、パ
ラパラと流し読みをする。活字が空を舞っては消滅してゆく。
今朝起きてみて、木暮は、ただ唐突に、二人の病を真似て休暇を
取ってみたいと思ったのである。心の病の実践だった。
南向きのベッドには、冬にしては珍しいほどの大量の陽が差し込
んでくる。ファンヒーターを切ると、替わりに、ゆっくりと加湿器が回
りだした。閉め切った部屋で、ファンヒーターが回っているというこ
とはかなりの乾燥が予想されるが、こんなときには加湿器は自動
運転はしない。木暮は新しい発見をしたと思った。
一旦ベッドからでると、木暮はパソコンの電源を入れた。
インターネットでメールをチェックすると、贔屓にしているショ
ップからのものが三件ほどあり、その一つに自然とアクセスして
いた。香水のショップだった。見慣れた商品が並び、ひとつ一つ
に値が付けられていて、今週の特価品というのには、特別のマー
クが付けられ、チッカーまで光っていた。
カルバンクライン、シェビニオン、バーバリー、ブルガリ、ジャ
ンヌアルテス 、レクトバーソ、ジバンシー、シャネル、ダンヒ
ル、ヒューゴボス。
どれもこれもこのショップから購入したものだ。しめて13品。
そもそも木暮が香水に興味を持ったのは、坂下の影響だった。
同僚の坂下は、いつもブランドもののスーツを着こなし、すれ違
いざまに「サムライ」の残り香を置いていった。汗臭いよりはい
いだろう、もうそろそろ年齢相応の嗜みというものが必要だろう
というのが坂下の持論だった。たしかに、そんなに若くはない年
齢にさしかかっていたわけだが、特に香水が必要だなどと木暮は
思ったことがない。
ただ、そんな風に香水を意識し始めると、すれ違いざまに香って
くる見知らぬ男の匂いまでもが気になりだした。
こいつはバーバリーのウィークエンドか。この初老の紳士はシャ
ネルのエゴイストだなとか、気になりだせば切りがなかった。
はじめての購入のきっかけは、購入者の感想だった。単純といえ
ば単純だったが、坂下の意見よりは触手が動いた。
そこにはこんなふうに書かれていたのだ。
『私は♀23歳です。この匂いにエロスを感じます。はっきりい
って、この香りを好む男性に抱かれてみたいです。セクシー、ひ
とことで言うとこんな感じかな。私はこの香水を自分でつけてい
ます。大好きな人がいつも側にいるようで、とても幸せ。』
気がつけば、木暮はキーボードを叩き、マウスを使って購入の注
文を済ませていたのだった。
届いたその商品は、木暮が女であれば、たしかに抱かれてみたい
ような気分にさせる、どことなく甘い香りのするものだった。
木暮はディスプレーに映し出されている商品のひとつに、マウス
を使ってマークを入れ、送信した。
またひとつ、明後日にもそれが送られてくるはずだ。
木暮はふたたびベッドに潜り込んだ。
陽射しは、相変わらず頭の方から差し込んできていた。
ラジカセの電源を入れ、FM局にチャンネルをセットした。派手
なラップの曲が、乾燥した部屋に遠慮することなく、不躾に割り
込んできた。演歌よりはいいのかも知れない、木暮は静かに蒸気
を吐き出している加湿器を見やりながら、ひとり呟いてみた。や
はり、何をする気にもなれなかった。
枕元に置いてある文庫を手にしてみる。一度読んだものだったが、
ほとんどの部分について記憶は曖昧だった。とにかく、この作者
のものときたら薄っぺらな描写しかなく、読後の印象としては残
るものなんてなにもない。記憶が曖昧なのも頷ける、木暮はそう
自分に言い聞かせてみる。
文庫を閉じ、木暮は目を閉じた。
今時分は丁度昼休み時で、出社していたなら、木暮は多分、椅子
の背もたれに身を預け、ちょっとした仮眠をとっている筈だった。
今日は誰にも遠慮することなく、この贅沢に入り込んでくる陽射
しの中で睡眠をとることができる。木暮は全身の力を抜いて、静
かに息を吐いた。
どうもおかしい。眠れない。誰に気兼ねすることもないというの
に眠れない。どこで歯車が狂ってしまったというのだろう。
木暮は身体を起こしてみる。ラジカセからはラップに替わってJ
-POPの曲が流れている。いつの間にか、加湿器は蒸気を吐き
出すことをやめ、ぴたりと止まってしまっている。
不安ともつかない、なんともいえない気分でいると、不意に香水
のことが気になりだした。気になり出すと言うより、あの、抱か
れてみたいと言っている♀23歳のことが気にかかったのだった。
正確には、♀23歳より、その香水の匂いのことが気になり、落
ち着かないのだった。
木暮はベッドを離れると、並んで置かれている13品の中から、
JSを手に取った。実在したイタリアの男性の強盗のイニシャル
から名づけられた香水だというJSは、なんでも、女性にもてた
彼をイメージしたものらしく、セクシー度は四つ星だった。
木暮は、アルミ缶に納められているJSのボトルを取り出した。
手に取ると、薄紫の液体がゆらりと揺れた。
ボトルにはJOE SORRENTOと書かれていた。実在した強盗の
名前にちがいなかった。
木暮は手首に近い静脈にJSをスプレーした。ほのかに甘い香り
が纏い付いてくる。つづいて首筋あたりをめがけて吹きかけてみ
た。鼻に近い部分だったので、いっそう甘い香りが木暮の嗅覚に
からみつく。相手は強盗だ、油断してはならない。
JOE SORRENTOが見境もなく襲いかかってくるような不思議な
気分だった。
♀23歳、抱かれてみたいんです。
たしかに、抱かれてみたい気分に木暮は襲われていたのかもしれ
ない。
「質問の答えになっていましたか?」
藪林は、そう言って木暮に問うてきた。
二週間前に社内で新企画のプレゼンがあり、藪林の説明後、かな
りの質問が飛び交ったのだった。藪林は丁寧にそれに答えていた
が、途中からあやしくなり、一同を沈黙させた。
「どうも、支社のあいつ、疑り深いんですよ」
藪林は、溜息混じりに木暮に救いを求めてくる。彼は、以前に心
の病で一月半ほど休暇を取っている。
「まあまあの説明だった思うよ」
「ほんとうに?」
疑り深いのは、いまの藪林だ。
「『燭台は高きに置け』と言うじゃないか」
木暮は、咄嗟に適当な答えで藪林に応じた。
マタイ、マルコにルカ、ヨハネ、聖書にある福音である。
マタイだったかマルコだったか、とにかくその福音書の中で、そ
う言っているのを木暮は思いだしたのだ。
藪林をそんなに気遣ってはいけない。同情することによって、こ
の種の病は一層深刻化するからだ。木暮は何かの本でそう書
かれていたことを記憶している。
「どういうこと、それって」
「つまりだ、燭台をかざしてみたところで、そこのところだけは
はっきり見えても、他がよく見えない、そんなところさ」
「それで、燭台は高きに置けか」
「そう、全体がすっかり見えるじゃないか。イエスの使途が言っ
てるのだから間違いない」
相変わらず適当に、木暮は答えた。
「問題は、全体を見ると言うことなんだね」
「些細なことでくよくよしていてはいけないよ」
その数日後、藪林は少し頭が痛いといって退社し、それから出社
することはなかったのだ。
心のヘルスカウンセラーである課長から呼び出されたのは、昨日
だった。課長は、細く長い中指で机をトントンと軽く叩いてから、
どうも、困ったものだといって溜息をついた。困ったものが、藪
林なのか、いま目の前にいる木暮を指しているのかは判らない。
「とにかく、君が彼に何かを言ったことは間違いない」
そう言って、課長はふたたび机をトントンとやった。
「それは、藪林君が電話で言っていたからね、はっきりしている」
そう伝えてから、藪林は、思うところがあるから休暇をくれない
かと申し出たのだという。
「カウンセラーとしてはだね、そこんところが気がかりなんだよ」
課長はいつのまにかペンを持ち、ノートまで開いている。木暮は
なんとなく窮地に立たされているような気がしてならなかった。
「聖書の話をしただけですよ」
「聖書? 君はクリスチャンだったのか?」
「いえ」
おかしいじゃないかと言いながらも、課長はペンを走らせている。
「ユダを知っていますか?」
「イエスを売ったユダのことか?」
「そうです。ユダの話をしてやったのですよ」
「どういうことだ」
「ユダはイエスのことを愛していたから売ったんだと」
「君ぃ・・・」
「まあ、聞いてください。ユダは本気でイエスを愛していた。イ
エスだってまんざらじゃなかった。裏切ったのはイエスの方で、
それを話してやっただけですよ」
「それと藪林君となんの関係があるんだ?」
「つまり、ひとから愛されるってことは必要なんだ、そう言った
だけです」
課長は怪訝そうに木暮をみると、もういいと言った仕草で、ノー
トを閉じた。カウンセラーとしては、こいつもちょっと心配な奴
に違いないと思っているのだろう。
木暮は、このまま話を続けていると、自分でも何を言いだすのか
自信がなく、不安になった。ユダのことなんて話してはいないし、
イエスが同性愛者だったなんて、不謹慎なことだ。世の中のキリ
スト教信者を敵に回すようなものだ。
「燭台は高きに置けですよ」
課長はそれに返事を返さず、もういいと言った様子で部屋を出て
いった。
燭台は高きに置けだ。木暮は一人取り残された部屋で、そっとひ
とり呟いた。
香水の瓶をTVに向かって放り投げる、ロバート・デ・ニーロだ
ったらそうするな。ちょっと前にレンタルした「タクシードライ
バー」のビデオを木暮は思いだし、JSを握りかえした。そんな
勇気はない。なぜなら、一瞬にしてブラウン管が破裂し、取り返
しのつかない事態になってしまうからである。現実は映画ほど格
好の良いものではないのだ。
木暮はJSを元の位置に戻すと、その隣にあるCotton Clubを
手に取ってみた。その名に似合わず、この香りはJSよりはるか
に甘いものだ。ロバート・デ・ニーロではないが、Cotton C
lubという映画もあったなと、木暮は記憶をまさぐってみる。
朝だったか夕刻だったのか、しんと静まりかえったダンスフロア
で、タップの音だけがやけに大きく響き渡り、カメラは執拗にそ
の足の部分だけを追い続けてゆく。
タンタン、タタンタンタン。タンタン、タタンタンタン。
足は軽快にリズムを刻む正確なマシンのように踊り続ける。
タンタン、タタンタンタン。タンタン、タタンタンタン。
木暮はパソコンに向かうと、香水のホームページを開いた。
Cotton Club、Cotton Clubと自分でも驚くくらいにリズム
をとっている。Cotton Clubにたどりつくと、やはりそこには
使用者の感想が掲載されていた。木暮の胸は小さく波打った。
*
甘くてセクシーなバニラ&ムスク。
「Cotton Club」は、アメリカで禁酒法が施行されていた19
20年代のニューオリンズにある有名なジャズクラブで、その名
をとってるってのは知っていたけど、落ち着きもあるし、甘く優
しい香りは、セクシーに香り立ち、夜を楽しむには、ぴったりね。
もうどうにでもして頂戴って感じかな。
彼へのプレゼントとして買ったけど、わたしが愛用しています。
(あい子 24歳)
はじめて肌に吹き付けたときの感想は、『男だけに』纏わせたく
ない、これでした。(笑)
甘さがあってその甘さが好い感じに香りに深みを感じます。
つけていて気持ちを落ち着かせてくれるような、そんな香水だと
思いました。やはり、男だけには使わせたくない。キッパリ
(美代 20歳)
「癒し系セクシーな香り」とでもいうのか、軽い決断で選んだの
でした。でも、これって正解でした。
どなたかが言ってるように、男だけには纏わせたくない。(笑)
この文面を見て改めて納得させられました。
香りを身に纏っている彼がいつもより男らしく見えるから不思議。
Cotton マジックとでも言うのでしょうか。
(ハニー ♀23歳)
プレゼント用に購入させていただきましたが、かなりイイです。
つけてる人に思わず抱きついてしまいたくなるぐらい、爽やかで
クリアーな感じです。
朝、この香りに包まれて目を覚ましたいですね。
(愛は限りない 女 20歳))
*
木暮はベッドに横になり、じっと天井を見つめた。
それからやおらCotton Clubを握り直すと、姿勢を整え、天井
に向けてスプレーした。宙に吸い込まれるようにして、甘いその
香りは漂いはじめる。まるで、1920年代のニューオリンズの
空気が、拡散して広がってゆくようだった。
リチャード・ギア、たしかに彼に違いない。
昔見た映画、「Cotton Club」の主人公は、売り出したばかり
のリチャード・ギアだったはずである。彼に絡む女優はダイアン・
レイン。彼女は愛らしく、それでいて、なんともセクシーな役ど
ころだった。リチャード・ギアの弟役はニコラス・ケイジ、ただ
の若造だった記憶が鮮明に蘇る。
あの悩ましい姿のダイアン・レインの香水はなんだったのだろう。
香水への執着が、いつのまにかダイアン・レインにすり替わって
いる。木暮はひとり笑いを繕ってみた。
木暮は肌に向けるでもなく、さらにCotton Clubをどこにとも
なく吹きつけつづけた。ボトルの中はすでに空に近く、底の方に
だけうっすらと、Cotton Clubの液体が揺らいで見えた。狭い
木暮の部屋の中で、気怠く甘い香りのCotton Clubだけが、息
苦しいほどに充満していた。不意にというのか、またしても、
「私は♀23歳」が気になりだした。
『私は♀23歳です。この匂いにエロスを感じます。はっきりい
って、この香りを好む男性に抱かれてみたいです。セクシー、ひ
とことで言うとこんな感じかな。私はこの香水を自分でつけてい
ます。大好きな人がいつも側にいるようで、とても幸せ。』
このまま朝まで眠れるといいのだが。
木暮は休むことなくスプレーをつづけ、そして、空に近くなった
ボトルを無意識に床に放り投げた。乾いた音が、噎せ返るような
甘い香りの充満する部屋に響いた。
タンタン、タタンタンタン。タンタン、タタンタンタン。
タンタン、タタンタンタン。タンタン、タタンタンタン。
木暮の頭の中では、1920年代のニューオリンズのタップの音
が鮮やかによみがえる。
タンタン、タタンタンタン。タンタン、タタンタンタン。
タンタン、タタンタンタン。タンタン、タタンタンタン。
ーー私は♀23歳です。この匂いにエロスを感じます・・・ーー
ーーこの香りを好む男性に抱かれてみたいですーー
多分、明日もまた休むことになるな。
眠りに落ちる意識の中で、木暮はそう思った。
『燭台は高きに置け』。
遠のく意識の中で、木暮にそう呟いているのは、あの藪林だった。
<了>
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