遠い残像(五)
―君も女房と同じようなことを言って、僕を責めるんだね―
―当り前のことを言っているだけよ。苛めてなんかいないわ。おかしな
ことを言ってはいけないわ。だって、わたしは山科君の奥さまがどう言
ってあなたを責めたかなんてわからないのよ。ただ、事故に遭うひとた
ちは不運なのよってことを言いたいだけなの。大きな事故で助ったから
運がいいひとだなんて、そんなことを言ってはいけないわー
―事故の話は、もう止そうと思うんだ―
―いいわよ、それじゃ何か話して頂戴ー
―君が先に話すといい。僕が君のことを憶い出せるようなことを。なに
かないのかな―
―そんな虫のいい話はないわ。お互いに、自然に振るまうことで過去も
憶い出すのよ。あなたには、まだそれがわからないようね―
―これでも自然に振るまっているつもりなんだ―
―それでいいのよ、無理してはいけないわ。そうね、あなたにひとつだ
け、お教えしておきたいことがあるわ。あなたがわたしを憶い出す手掛
りなんかじゃないけど、きっと喜んでくれると思うの。それはいま、わ
たしがあなたのセーターを編んでいるってことなの。どう喜んでいただ
けたかしら―
―いきなりそう言われても実感が湧かないな。でも、どうして? ―
―御迷惑かしらー
―そんなことはないけど、理由がなくては…―
―理由はあるわ。でも、理由がなくてもかまわないことだってあるわ。
わたしとあなたが同級生で、あなたが寒い北海道に住んでいる、それだ
けで理由は十分だと思うわ。そんなに深く考えないことよ―
―たしかにそうかもしれないけど、それだけでいいのかな―
―それだけでいいのよ。あなたは余り考えない方がいいわ―
ーでも、僕の体型はわからないのじゃない? ―
―それが、わたしにはわかるのよ。あなたの、アルバムにある写真を見
ていると、ああ、このひとはいま、こんな体型なんだなってことが、不
思議なくらいよくわかるのよ。別に驚くことではないわ。わたしには、
そんなおかしな能力があるのね、きっと。おそらく、あなたは標準型の
ひとよ。太ってもいない、痩せてもいない、でも、いくらか肩の骨なん
かいかって張り出しているのじゃないかしら。どう?―
―当っているとは言えないかもしれないけど、そんなとこかな―
ー曖昧はいけないわ、はっきりして頂戴―
―標準型を少しだけ大きくしたくらいかな―
―わたしは、標準型を一廻り大きくして編んでいるところよ。どう、わ
たしの能力の偉大さは―
―敵わないよ―
私は幾分ぶっきらばうに応えた。投げやりな態度が悟られなければい
いなと思いながら、受話器を握りかえした。握りのあたりが汗で滑り、
ヌルリと妙な感触がした。
―できあがったら、すぐに送ってあげるわ。まだ、しばらくかかりそう
だけど、わたしだって一生懸命なのよ。なぜって言うと、あなたはご存
知ないのは当然だけど、わたし、何事にも根を詰められないのよ。性格
って言うんじゃないのよ。でも、近頃それが随分ひどいみたい。一日二
時間、それも午前と午後に分けて、それくらいしかできないの。随分長
くかかりそうだけど、わたし、きっと頑張って仕上げるわ―
―余り無理しない程度でいいと思うな―
―ありがとう、やさしいのね。そんなことより、わたしいま急に思った
んだけど、山科君、あなた夫婦のことを少し真面日に考えたことがある
かしら。ううん、そんなにむづかしい話じゃないの。たとえば、ふいに
目が醒めたりして、隣りで眠っている奥さまを見たときなど、何か感じ
ないかしら。わたしはあるわ。やはり、最近になって、そんな風に思う
ことも多くなったわ。ひどいものよ。主人の寝顔を見ているうちに、こ
の男は 一体何者なのだろうと思ったりするのよ。どうして、わたしの隣
りで眠っているのだろうとか、終いには気味が悪くなってしまうわ。大
体、男のひとの顔っていうのを、じっと見たことがおあり? 顔のいた
るところから堅いお髭なんかでていたりして、肌だってざらついた感じ
で、ほんとうに不潔だわ。そう思うことなくって?―
ーなぜ、急にそんなことを思ったりするんだい。そんなことを考えるこ
との方が、おかしいと思うよ―
―なぜおかしいって言えるの。こんなことを考えたりしたらいけないっ
て言うのかしら。いま、ふと思ったって言ったけど、本当はずっと前か
ら考えていたのよ。それをおかしいだなんて、きっとあなたが男だから
よ。自分で自分に気づいていないんだわー
―女のひとだって、君みたいなひとばかりじゃないと思うけどな。いろ
いろいていいと思うんだ―
―あなたにはわからないんだわ。いえ、わかろうとする気がないのよ。
わたしが言っているのは、主人だと言っても他人だってことなの。他人
同士がそのことに気づいたとき、それはもうたいへんなのよ。なぜ他人
でありながら一緒にいるのかしら。わたしはいやよ。いろいろなひとた
ちがいたっていいけど、わたしはいやなのよー
―でも、他人だと言っても、夫婦なんだから仕方がないじゃないか―
―仕方がないなんてよく言えるわね。あなたがそんなひとだったとは思
わなかったわ―
―ちょっと待ってくれないか。そんな風に怒られるなんて心外だよ―
―怒ってなんかいないわ―
―僕には怒っているようにしか思えない。この前と同じじゃないか―
―そうとられるようなら謝るわ。山科君、いま、わたしとても不安なの。
まるで知らない世界にいるみたいで。主人はいまはいないわ、サウジア
ラビアですもの、それは知っているわよね。でも、休暇で帰国して一緒
にいるときなんか、ついこの男はわたしの何なんだろうって思うわけ。
食事を摂っているときも、居間でテレビを見ているときも、どうして、
この男はわたしの傍にいるんだろうって思ってしまうの。でも、それく
らいなら、なんとか自分でも納得してみることはできるんだけど、ベッ
ドで寝ている主人を見たとき、わたしゾッとしたわ。こんな言い方する
と、随分ひどく思われるかもしれないけど、それは本当なんですもの、
どう仕様もないのよ。夫婦って一体何なのかしらって思ったわ。このま
ま、この男と一緒に未知の世界へ流されて行くなんて、でもそれが夫婦
なのかしらとか、それでふたりが死んでしまったらどうなるのかとか、
いろいろ考えてしまうのよ。あなたは、お骨になったときのことを考え
たことがあるかしら。女って言うのは、お骨になっても知らない世界を
旅するのよ。誰だかわからないひとたちのお骨と一緒に、終わりのない
旅をするのだわ。そんなことばかり考えていると、躯によくないことは
わかるのだけど、この頃になって、そんなことばかりを考えてしまうのよ。
それこそあなたの言う仕方のないことなんだけど、考えてしまうのよ。
それのどこがいけなくて、どこがおかしいのかしら―
―やはり、どこかがおかしいよ。夫婦についてのことなんて、そんなに
真面目に考えたことないから、いまはうまく言えないけど、いつもそん
なことを考えているなんて普通じゃないと思うな―
―病気だって言うのね。ひどいわ―
―そうは言ってないさ。僕にはその考えについて、どう言っていいのか
用意ができていないんだー
―逃げなくてもいいわ。あなたは、平気でどんな女のひとでも抱けるっ
て言うのね。きっと、たくさんの女のひとを抱いてきているんだわ。あ
の娘だって抱いているんだわー
―あの娘って? ―
―学生の頃のあなたのことよ。富山であなたは抱いたんだわ。それを
「悲しみの泪」なんて言って―
―その話は、いまは関係ないじゃないか。お骨になったときの話をして
いるんだろう―
―そうよ、お骨になったときのことよ。わたしは主人の墓には入らないわ―
―そうは言っても、無理な気がするなー
―それじゃ、わたしはどうしたらいいのかしら。別れろというのね―
―そんなこと言われても、僕はどう答えていいのか、はっきり言ってわ
からない。君の考えていることに答えをみつけだすのは無理な気がする
よ。答えなんて、はじめから無いようなものなんだからね―
―なぜ、答えが無いなんて言えるの。本気になって考えていないんだわ。
別れて解決すると思っているなら、そう言えばいいのよ―
―君が別れて全てが解決すると思うなら,そうしたらいいじゃないか―
―やはり、別れろって言うのね。はっきり言ったらいいのだわ―
―そうじゃないんだ。でも、どうしてそんな風になったのだろう。つま
り、ご主人のことを不潔に思うようになった理由だけど、言いづらいん
だけど、他に女のひとができたとかー
―あなたは、そんなことしか考えられないの。主人は山科君とはちがう
わ。そんなこと一度だってありえないわ。こんなこと、あなたであって
も話したくないのだけど,信じられないくらいに、ふいに起ったのよ。
まるで事故のようなものだったわ。わたしが寝すんでいるべッドに、主
人が晩くなって這入ってきたのよ。わたし、もうびっくりして、そのと
き主人の顔を見たわ。ああ、主人だなって思うより、このひとは誰なん
だろうという観念の方が先にはたらいて、それはもうほんの一瞬なのよ。
理由なんてないのよ、急にそうなってしまったんですもの。あのとき以
来、ずっと考えているわ―
―もう、ご主人のこと、嫌いになったってことかなー
―嫌いになるとかじゃないのよ。いまでは、以前から好きだったかどう
かもわからないわ。きっと、愛していたとは思うの。でも突然なのよ、
まったく突然他人のように思ってしまうのよ。このままではいけないわ。
そこが不安なの、わたしはどうしたらいいのかしら、山科君―
ー僕にだってわからない。電話じゃとても相談に乗れるようなものでも
ないし―
―近くにいればいいのね。あなたの所へ相談にうかがうわ―
―それは困る。急にそう言われても、こちらにも用意があるから―
一言ってることがおかしいわ。わたしのことを避けているのね―
―そんなことはない。もう少し、時間をかけた方がいいと思うんだ―
―時間なんてないわ。来月になったら、主人が休暇で帰ってくるんです
もの―
―それじゃ、そのときに話し合ってみたらいいのじゃないかな、ご主人と―
―それも考えてみたわ。でも、考えるだけで怖いのよ。不安なのよ。だ
からあなたに相談しているんじゃないー
―でも、どうして僕なんかにそんな大事な相談をするのかな―
―それは、はっきりしているわ。あなたが、わたしの所から、もっとも
遠い所にいるひとだからよー
―遠くにいるから?―
―そう、アルバムを見ていて、わたし圭子さんに訊いたの。このひとた
ちの中で、わたしか
ら一番遠く離れた土地に居るひとは誰かって。それがあなただったのね―
ーそれじゃ、誰でもよかったと言うことになるじゃないか。随分、ひど
い話だ―
―そんなふうに言わないで。きっと、そればかりじゃないと思うから―
ー思うからなんて、曖昧なんだな―
―山科君、お願いだから、それ以上言わないで。なんだか急に頭が痛く
なってきたわ。都合のいいように言っているんじゃないの、ほんとうよ。
今日はいろいろ考え過ぎたわ。考え過ぎると、割れるように頭が痛くな
ることが多くなって。わたしがいけないんだわ。おかしなことばかり言
ってしまって、ご免なさいね―
―大丈夫? ―
―心配なさらなくていいわ。もう止します。お電話も切ります―
ー医者に診てもらったほうがいいんじゃないかなー
ーもう、診てもらっているわ。あなたは心配なさらなくてもいいの。わ
たしの問題なんですもの。それより、福井の話がひとつも聞かれなかっ
たのが、とても残念。今日こそはと思って、お電話したというのに、と
ても口惜しいわ。また、お電話してもかまわない? ―
―それはかまわないけど、気分のいいときがいいと思う―
―やさしいのね。それじゃ、ほんとうに御免なさいねー
鏡子の声は、意外にあっけなく消えた。
私は静かに受話器を置いた。置いてからも、しばらく、鏡子の苦しそ
うな声が耳に残っていた。
煙草に火をつけながら、これは、ある種の災難なのかもしれないなと
思った。同級生だというだけで、なぜ、その災いを避けようとしないの
か、自分でも不思議な気がした。
煙草の煙を思いっきり吐き出すと、風船が凋むように、躯全体から力
が抜けてゆくようだった。
だらしなくソファに坐り直すと、耳元で、ふいに「あなたじゃなくて、
わたしの問題なんですもの」と、鏡子が囁きかけているような気がした。
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