遠い残像(三)
―よくわからないけど、子供を持った親がたいへんなんだということは、
なんなく想像できるけどね―
精一杯、譲歩するように私は応えた。
―なんとなく想像してはいけないわ。しっかりしなくては駄目なのよ―
私は、鏡子の精神の起伏の激しさに改めて驚いた。
多分、癇癪持ちのせいだろうと思うが、別に原因があるのかもしれな
いとも思えた。
受話器を左掌に持ちかえながら、際限なくずるずると鏡子の話に付き
合うことは、そろそろ限界だなと思いはじめていた。
ー生きてゆくのに、子供に責任なんてないのよ。大人になるまで、守っ
てあげなくてはいけないんだわ・・・ー
―いま、どこから電話をかけているの?―
私は、鏡子の気勢を抑えるように、つとめておだやかに言った。
―きまっているじゃない、自宅よ―
―御主人は?―
―いないわ。サウジアラビアよ。商社勤めで、もう二年になるわ。あな
たにも言っておきたいの。子供は両親がいてはじめて育つものなのよ。
勝手なことばかりしていてはいけないわ。いえ、主人がそうだとは言わ
ないわ。ふつう、そういうものだってことを言いたいだけなの。あなた
も、そのうち、きっとわかると思うわ。主人の話は、もういいでしょう―
―でも、どうして、急に僕なんかに電話する気になったのかな? ―
―まだ、そんな馬鹿みたいなことを言っているのね。あなたは、まだ憶
い出せないのかもしれないけれど、わたしは、あなたのことを知ってい
るのよ。同級生だったんですもの当然よ。そのわたしが、突然だったか
もしれないけれど、電話をしてどこが不思議なのかしら。御用事がなく
ては電話をしてはいけないのかしら。おかしなことを言うものではない
わ、山科君―
―それじゃ、何を話すといいんだい。僕には何を話していいのかわから
ないんだから。はっきり言って、驚いているくらいなんだ―
―中学生の頃のことを話してくれないかしら。もう、何年も話をしてい
ないんですもの、あの頃のことを憶えているだけ話したいのよ。とにか
く、わたしたち久し振りなんですものね―
私は、無意識にテーブルを右掌の指を並べて叩いていた。人指し指が
あたった後に、中指と薬指が順を追うようにしてあたり、それを繰り返
していた。コツコツと乾いた音が小さく鳴った。癖みたいなもので、何
かを考えているときによくそうするのだが、妻はそれを嫌った。妻だけ
ではない。周りにいる者は皆、イライラするから止せとありがたくもな
い忠告をする。
もうひとつ、私には似たような癖がある。独りでいるときなど、グラ
スからこぼれた水を、テープルいっばいに引延ばすというものだ。偶然
グラスからこばれた雫があればいいのだが、ないときは、それを自分で
作って同じようなことをやる。指をグラスの中に入れ、テープルの上に
静かにもってゆくと、音もなく一雫の水滴が落下する。それはまるで、
天から降り落ちた悲しみの泪のようなのだ。薄く盛りあがったその雫を、
素早く小指を使って引くのだ。うまくいくときは、三滴ほどの悲しみの
泪ができることもある。
私は、いま、テーブルの上に、ひとつの悲しみの泪もないのを、なぜ
か悔んだ。
―なぜ黙っているの―
―別なことを考えていたんだ―
―別なことってどういうこと? ―
ーE中学の頃のことではなく、僕が富山の学校にいた頃のことさ―
―高校生の頃のこと? ―
―あそこは五年制の学校だから、四年生の頃は高校生とは言わないと思
うけど、つまり、その頃のことをぼんやり考えていたんだ―
―面白そうじゃない。是非、聞かせて欲しいものだわー
―でも、E中学の頃のことじゃなきゃ共通の話題とは言えないじゃないか。
君だって、その方がいいのだろう―
―それはいつでもいいのよ。山科君のいま思っていたことから始めるべ
きだわ―
―詰まらない話だよ、はじめて酒を呑んだときの話なんて。開いても他
人には面白くもないはずだし、迷惑かもしれない―
―迷惑かどうかは聞いてみなくてはわからないじゃない。早くお話なさ
い。それに、他人なんて言ってはいけないわ。わたしたちは同級生なの
よ。同級生は他人なんかじゃないわ。そんな余所余所しいことは言わな
くていいのよ―
私は、鏡子という女に、わけもなく誘導されるように引き込まれてゆ
く自分が不思議だった。不思議というより、初対面のような女と、何故
このように昔の話を懐かしんでいるのか、自分で自分がわからなくなっ
ていた。どんな話をしても、おそらく、鏡子と私の話題は共通するとこ
ろなどなにひとつないはずだった。
―酒を初めて呑んだ後、勢いづいてバーに入ったのさ。そこに若くて可
愛い娘がいたんだ―
私は物語を語るように、受話器に向って言った。
鏡子は黙ったままだった。
―その娘とカウンターに並んで話をしていると、グラスを伝って水滴が
ひとつ落ちたんだ。黒い艶々するカウンターの上で、その水滴は小さな
玉のように盛りあがっていて、それに頭の上にあるスポットのライトが
あたって時折キラリと光るのさ。初めて酒を呑んだせいか、随分きれい
に僕には見えたんだろうね。「悲しみの泪」。そのとき、ふいに隣りの
娘がそう言ったんだ。その娘は、きっとそんな心境だったんだろうね。
僕は、その後もガムシャラに酒を呑んだ。いい酒だったなあ、あれはー
―本当に初めてのお酒だったの? ―
―そうさ。少なくとも自分の意志で呑んだ、初めての酒さ―
―それからどうなったの―
―どうもならないさ―
―嘘よ。あなたはその娘を誘惑したのね―
―誘惑はしないさ。でも、その時初めて女のひとの胸に触れた。不真面
日と思うかもしれないけど、自然にそうなったんだ。僕は、自分では真
面日だったと思っている―
―真面目でよくそんなことができるわね。ほんとうは、不真面目な気持
ちだったのじゃなくて?―
―こんなことを、君に話している、いまの僕の方が余程不真面目さ―
―同級生にってこと? ―
―同級生だったこともわからない君にってことさ。だけど、無闇にこん
な話をしているわけじゃないんだ。その娘っていうのはね、実は、福井
県から出てきていたんだ。そのことを話したかったのさ―
―E中学のひと?―
―そんなうまい話はないさ。偶然なんだ―
―同県人だから、あなたは胸に触れたっていうのね―
―そうは言わないさ―
―好きだったの?―
―わからない―
―じゃ、やっぱりずるいのよ。山科君はそういうひとなのよ。いまでも、
その女性の名前憶えている?―
―憶えているよ―
―あなたはひどいひとよ。ずるくてひどいひとなのよ。わたしや圭子さ
んのことを忘れても、そのひとのことは憶えているんですもの。一体、
同級生ってなんなのかしらー
―何度も言うようだけど、初対面のような君に、こんな話をするのは可
笑しなことだと思う。でも、君だって、そこまで僕を責めなくてもいい
んじゃないかな―
―初対面なんて思っているからいけないのよ。あなたは、本気になって
憶い出すこともしないで、女のひとの胸に触ったことばかり話したりし
て、「悲しみの泪」だってほんとうのことかしら―
―僕は、妻にだってそんなにひどく言われたことはないよ。こんな話を
した僕がいけなかったんだ。君から電話をかけてきたんだから、そちら
で切るといい。僕は、もう話すことはなにもない―
私は、本気になって語気を荒げた。
―いえ、まだあるわ。肝腎なことが残っているじゃない。あなたはその
日、初めてお酒を呑んで、初めて女のひとの胸に触れたんですもの、も
っともっと、沢山そのときのことをお話すべきよ―
―それで全部さ。もう、なにも話すことなんてないよー
―怒ったのね―
―いきなり電話を寄こして馬鹿にされりゃ、誰だって怒るさ―
―謝るわ、ごめんなさい。わたし、どうかしていたんだわ。山科君に久
しぶりに電話だけど、お話することができたんですもの、きっとどうか
していたのね。もう、お話なんてしたくないのね。横暴でひどいのはわ
たしのほうだわ。ほんとうにごめんなさい―
―もういいよ。きっと僕もどうかしていたんだ。こんなことになるなんて―
―もう、お電話できないのかしら―
―電話をくれても、悪いことばかりじゃないか―
―よいこともあるかもしれないわ―
―期待はできないよ――
―辛抱がないのね―
―辛抱する必要がないのさ。いくらかでも君のことを憶えていれば別だ
けど―
―そのうち、きっと憶い出すわよ。諦めないでほしいわ―
―励ましてくれるんだね。妙な気分だ―
―きっと憶い出すわ。ごめんなさい、こんなに晩くなってしまって。ま
た、近いうちにお電話するわ。怒って切ったりしないでね。これだけは
約束して―
―自信がないけど、そうするよ―
―ありがとう、山科君。あなたは、やっぱりわたしの同級生だわ。ほん
とうに、晩くまでごめんなさいね―
少しの間があり、チンという音がして電話は切れた。そのまま受話器
を耳にあてたままでいると、ツーという連続音が、しばらくの間つづい
ていた。まだ言い足りない鏡子が、不明な信号を送ってきているようだ
った。
私は、その信号音に向って大袈裟に溜息をついた。
鏡子と話している間中、幾度となくそんな溜息ばかりをついていた。
フックに受話器をもどして立ち上ると、私は冷蔵庫の扉を開いた。中
に手のついたワインのボトルが横になっていた。
脚の長いワイングラスをテーブルの上に置くと、私は赤い色をしたワ
インを一杯に注いだ。
蛍光灯の光の具合で、ワインは薄い赤味を帯びて、かすかに揺れていた。
また電話をするわと言った鏡子の声が耳に残って離れなかった。
グラスを持って口へ運ぶと、透明なガラスの縁を伝って、少量のワイ
ンがテープルにこぼれた。冷たくなった赤い液体は、酸味を残して喉を
通過し、胃の中にじわりと落ちていった。
グラスをテーブルにもどすと、たったいまできたばかりの赤い液体の
雫が透明に変わり、テーブルの色を透していた。
どこか不安定な感じのする、透明な島のようだった。
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コメント
真夜中のちょっぴり不思議でちょっぴり怖い話ですね~。
結局電話の主は本当に同級生だったんでしょうか。
それとも、同級生の友達から聞きかじったことを
並べたてただけだったのかな・・・。
読み始めた時は、同窓生を装った詐欺かセールスなのかと思っていたんですが
「鏡子」の神経質にせっぱ詰まった様子をみるとそうも思えないし・・・。
例えば普通久しぶりの同級生に電話をしたら
何年何組だったとか、担任は誰だったといった具体的な話をして
「ああ、あのクラスの!」って思い出すように導くと思うんですが
そういった話も出てこない・・・。
うーん、この後どういう展開になったのか
「鏡子」は本当は誰だったのか、とっても気になるんですが、
この話の続きはありますでしょうか?
もしも、これが実話でなくて、ここで続けても良いとお思いになったら、
ぜひ、続編をお願いします~。
投稿: しのぶ | 2005.12.28 14:47
しのぶさん、
丁寧にお読みいただき、ありがとうございます。
不思議な話のところが創作なのです。
実話だったら怖いですよね。
怖くて電話すぐ切っちゃう。(^^
続きはありますので、これからアップしますね。
深夜に電話が鳴っていて、それをとることもなく、じーっと呼び出し音を聞いていたことがあります。
この電話線の先には誰がいるのだろうって考えていたら、こんな小説が生まれたということなんです。
こんなやつもちょっと怖いかもです。(^^;
それでは続きをお読み下さい。
投稿: 信天翁 | 2005.12.29 10:40