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2005.12.27

遠い残像(一)

              1

 電話の電子音が目覚し時計のように鳴った。
 ベッドを降りて受話器を取り、時計に目をやると午前の零時をまわっ
ていた。
 妻は薄く開けた目をこちらに向けると寝返りを打ち、背中をまわした。
酔った友人が、どこかのスナックあたりから電話をかけてきたものだと
思っているのかもしれない。
 土曜日の夜半には特に多く、この頃になって、妻はうんざりした様子
で、私がすでに寝すんでしまったことを相手に伝え、丁重にわけのわか
らない詫びを言ったりしていた。

―もしもし、山科です―
 私は声のトーンをおとし、真夜に相応しい静かな口調で受話器に応じた。
 火の気のない床板は冷えきり、その上に敷いたカーペットを通して、
冷気が足許から徐々に這い上ってくる気配があった。
―もしもし、山科ですが―
 同じ様に繰り返してから、私は相手の反応を待った。小刻みに躯が震
えた。受話器に当てがった耳に神経が集中し、その部分だけが急激に火
照り出した。冷たいはずの耳朶さえも熱くなっているのがわかる。
 期待していた応答もなく、スナック特有の酔客達のざわついた周辺の
雰囲気すら受話器は伝えてこない。
 しばらく無言の状態を保ってから、私は受話器を戻そうとした。
―切らないで下さい。いま、お話しますから・・・ー
 女の声だった。弱々しそうに困惑した様子のその声は、語尾に関西な
まりを含んで、かすかに遠のいてゆくように受話器から消えた。まるで、
音響技師がやるフェイドアウトのようだった。
 一呼吸間でも置いているのか、女は無言のままだった。私は底冷えの
する床を片足でそっと軽く擦ると、受話器を堅く握りかえした。そこだ
けが熱を帯びているように熱かった。
―あなたは厄年なはずよね―
 突然、女は私の隙を突くように言った。
 小刻みに震えていた躯が一瞬止まった。私はたじろいだ。
 受話器の向う側にいる女は、先程の弱々しい声とは打って変わり、驚
くほど慣れ慣れしい口調だった。
 悪寒が背筋を走ったが、やはり耳だけは溶解した鉄を流し込まれたか
のように熱かった。鉄の熱さは、女の声が耳奥に到達するまでの間、徐々
に皮膚に浸透してゆくようだった。
ー急にごめんなさい。驚かせる気はなかったのだけど、今日という今日
は、是非あなたに聞いておいてもらいたいと思ったものだから―
 女は慣れなれしい態度を繕った様子で、声のトーンをおとして静かに
言った。
―なにかの間違いじゃないんですか。悪戯電話なら切りますよ―
 私は不愉快を声に出して言った。
―何を言っているのよ、カエルを切り刻んだコウゾウ君が。わたしは何
もかも知っているのよ―
 女は語気を強めて私の名前を口にすると、ふたたび呼吸でもととのえ
ているのか、押し黙ってしまった。

 幸造という私の名前を知っている女が電話線の向うにいて、私のこと
を何もかも知っているという状況に、私は戸惑った。一体、どういうこ
となのか。
 私は部屋の中をひとわたり見通した。
 目が慣れていないせいか、暗い部屋はぼんやりとしていたが、何も変
わっている様子はなかった。いつの間にか、耳奥を通って流れ出した溶
解した鉄が、躯の芯までゆきわたったようで、震えはすっかりなくなった。

―僕のこと知っているんですか?―
―知っているから、こうして電話したんじゃない。ごめんなさい。急に
理科の実験のことなど話してしまって。でも、何からお話していいのか
わからないのよ。あなたが北海道にいらして、わたしが大阪に住んでい
て、北海道にいるってことだって、つい先日わかったばかりですもの…。
いま、そちらは雪かしら? ―
 大阪なのだというところに、なぜかしら口惜しさが感じられた。
 言っていることがどうもわからない。
―多分、そうだと思うけど暗くてわからないんだ―
 私は戸惑いをかくすように女に応じた。
―そうよね、こんなに晩いんですもの、わからないわよね。でも、よか
ったわ、あなたの声が聞けて。福井の中学校の頃と、少しも変わってい
ないんですもの。福井E中学のことよ、憶えているわよね―
―あなたも福井E中学の出なの? ―
 私は、自分でも驚くほど大きな声で言った。
―まあ、なんてこと言うの。あなたとは同級生じゃない。俵鏡子よ。憶
えていないなんて変よ。忘れているのなら憶い出して頂戴―

 私は白い平たい受話器を持つと、グルグル遊んでいるコードを思いき
り引寄せ、ソファの前にあるテープルの上に置いた。それから、腕をい
っぱいに伸ばすと、受話器を持ったままの姿勢で、温風ヒーターのスイ
ッチを押した。暗い部屋の中で、タイマーの表示灯が、音もなく点滅を
くりかえしはじめた。
 ソファに腰をおろしてから、私は改めて暗い部屋に凝っと目をこらした。
不安定な空間の中で、毎日見慣れたはずのものさえ、やはりぼんやりと
して曖昧だった。
 一旦、腰をおろしたソファを離れると、私は部屋の灯りのスイッチを
手探りで探しあて、それを押した。見たことのない調度品が、予告もな
く現れそうな気がしたが、灯りのともった部屋の中に、見慣れない調度
品などひとつもなかった。
 安堵してソファに戻ると、莫然とだが長い電話になるような気がした。

―憶い出してくれたかしら―
 女が勢いこんで訊いてきた。
―俵というのは旧姓なんですか?―
―憶い出せないのね。そういうひとなのよ山科君って。カエルを切り刻
むようなひとなんだから、憶い出してくれなくても結構よ。あなたのよ
うなひとを薄情っていうのよー
―それは少しひどすきるじゃないか。初対面とはいえないのかもしれな
いけど、僕にはまだ、あなたのことがまるでわかってないんだから。あ
なただって、いまの僕のことを知らないのだし、それを薄情だなんて決
めつけるのはひどいと思うけど・・・ー
―あなただなんて他人行儀はやめて。俵でいいのよ。薄情なんて言った
ことは謝るわ。でも、山科君はほんとうにわたしのこと憶い出せないの?―
―憶い出そうと思っても、急なことなので、どうもよくわからないんだ。
君は、何故僕のことをそんなに知っているの?―

 鏡子はすぐには応答しなかった。
 点滅していたタイマーの表示灯がカチリと音をたてて消えると、温風
ヒーターのファンが回転しはじめた。シンと静まりかえった、冷えきっ
た部屋の中に、勢いよくやわらかい温風が吐き出された。ファンの回転
する音だけが、二人の沈黙の中に割って入り、生き物のように吠えつづ
けているようだった。
―福井駅で山科君と別れたわ。山科君が富山の高校、たしか、お船の学
校よね、そこに入った年の夏休みのことよ。圭子さんもいたわ。桜井圭
子さん、憶えているでしょう。他にも何人かいたようだけど忘れてしま
ったわ。福井駅も、いまはすっかり変ってしまったようだけど、わたし
は、あの頃の福井駅をはっきり憶えているわ。あなたは、あのとき泣き
そうな顔をしていたわね。圭子さんとあなたを送った帰り、いっそ、泣
かせてしまった方がよかったかしらと顔を見合せて笑ったものだわ。そ
れにしても、山科君は、あのとき何が悲しかったのかしらー
―残念ながらそれも記憶にないんだ。かすかながら、みんながホームに
来てくれたのは憶えているんだけど、君や桜井さんというひとのことも、
どうもはっきりしないんだ。すまないけど・・・ー
―やっぱりあなたは薄情なのよ―
 境子はきっぱりとそう言ってから口を閉ざした。強い口調は、明らか
に私を糾弾していた。
 責められる理由もわからないまま、私は受話器を持ちかえると、自由
になった右掌で煙草を一本取り出し火をつけた。吐き出された煙が、ファ
ンヒーターから送られる温風で、筋を引くように流れて消えた。

 もう一度ゆっくりと煙を吐き出しながら、私はこの女が癇癪持ちなの
かもしれないなと思った。
 女の言うことが本当なら、私は真夜中に、大阪にいるというかつての
同級生と二十数年ぶりに話をしているということになる。しかも、女の
方は私を知っているらしいが、私は女について、ほとんど何ひとつ知ら
ない状況にあるのだ。悪戯電話にしては手がこんでいる。
 私は、受話器を置くタイミングを計っていた。その一方で、しばらく
この同級生という女と、妙な状況の中で付き合っても悪くないなと思った。

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