遠い残像(七)
―急にこんなことになってしまって、ご免なさい―
ーそれで、あなたは、これからどうすればいいと思うのですかー
ーいままでどおり、鏡子さんのお話を聞いてやるより、他に方法はない
ような気がするんです。山科さんにとっては、たいへんなことだと思う
のですけどー
―でも、むづかしいなあ。事情を知ってしまったら、次からどう対応し
ていいのか―
―たいへんなのはわかります。迷惑なのも十分承知しています。だから
といって、どうか鏡子さんを見捨てないで欲しいんです。鏡子さんだっ
て懸命なのですから。どうかわかって下さい。わたし、きっと快くなる
と信じているんですもの。山科さんにもそう信じてもらって、無理を承
知でも、お願いしたいんです―
―やはり、話を凝っと聞いてる方がいいのかな―
―いえ、ときどきは、何かお話をした方がいいと思います。ご存知でし
ょう、越前浜のこと、竹人形のこと、山科さんが福井にいたときの様子
なんかでいいんです。お医者もそう言っています。ただ、余り考え込ま
せないほうがいいとも言われています。鏡子さん、ときどき、思い込み
過ぎると、頭が痛くなるらしいの。無理をしないで、ゆっくり時間をか
けて、鏡子さんを、余り刺激しないように話をしていただきたいの。と
てもむづかしいことだと思うんですけど、でも、お力を借りたいんです―
ー越前浜のことだって、僕には随分昔のことだから…ー
―憶えていない? ―
―ほとんどね―
―わたしはよく行ったわ。鏡子さんたちと、学校の帰りや休みのときに
。楽しかった思い出もいっばいあるわ。もう、すっかり変わってしまっ
ているのね、きっと―
―越前浜ばかりじゃないですよ。人だってみんなすっかり変わってしま
っている―
―山科さんも、わたしも、鏡子さんだって…。ご免なさいね、無理なこ
とばかりお願いして。それから、わたしから電話のあったことは、鏡子
さんには内緒にしていたほうがいいと思うわ。しばらく様子をみて、機
会があったら、わたしのほうから話しますから。ご迷惑なことばかりで、
ほんとうに申し訳ないことだと思います・・・ー
ほんとうに申し訳ないことだと重ねて言ってから、丁寧に頭でも下げ
ているのか、やや間があって電話は切れた。
受話器をフックに戻すと、私は蛍光灯のある天井に顔を向け、静かに
目を開じた。光が庶断され、目蓋に赤い幕がかかった。その赤い幕に、
突然映像となって現れたのは、圭子が、いまはすっかり変わってしまっ
ているのねと言った、私たちがよく遊んだことのある越前の海岸ではなく、
岩肌の切りたった断崖がびっしりとそそり立っている、東尋坊の荒々し
い風景だった。
E中学の頃、私は友人と一緒に、その父親がもっている漁船に乗って、
東尋坊のすぐ近くを走ったことがある。眼前にそそり立つ、その絶壁を
見上げながら、友人の父親は、死にたいと思っても、決して、あの断崖
からは跳び降りるなと教えてくれた。漁師が教えるのだから、いいなと
念を押した。何故かと尋ねる私に、その父親は、あっさり、死なないか
らさと言った。東尋坊だからといって、簡単に死ねるとばかりは限らな
いらしい。友人の父親は、幾度か、そのような自殺をこころみた人達を
助けたことがあったのだ。岩にあたっても運よく死なないで生きていた
り、海水を一杯飲んでカエルのように膨らんでいたり、それでもその人
達は精一杯、無意識のうちに、かすかに呼吸をしているらしいのだ。
意識を途中で取り戻し、船に向って泳いでくる者もいたと、悠然と構え
てその父親は言った。船に助け上げたときのことを、私と友人は昂奮し
て訊いた。
「思いっきり、たたくのさ」
意外にも、父親は右腕をいっばいに振り回すようにして、私を睨みつ
け、そして大声で笑った。そのごつい二の腕を見て、折角、助ったひと
が、ほんとうに死んだりはしないものかと心配になった。初めから死ぬ
気だったのだから、かまいはしないさとこともなげに言って、その父親
は厳しい顔になった。それから父親は、さらに興味深いことを教えてく
れた。
「助かってもな、大抵は馬鹿になってしまうんや」
「馬鹿に? 」
「そうだ。何も憶えていない。生きていても死んだみたいなもんやな」
「生きていながら死んでいる、言うんか? 」
「記憶喪失? 」
「二人いたな。中学生のくせに、そんなむづかしい言葉、よう知っとる
な。だから、お前たちも死のうなんて考えないことや」
私と友人は、自分たちが言った、耳慣れない言葉に身がすくんでいた。
私はゆっくりと目を開けた。赤い幕が消えて失くなると、光線が束に
なって、瞳孔いっぱいに入り込んできた。気のせいか、目蓋がかさつい
て重い感じがした。煙草に火をつけると手が震えた。
煙を躯一杯に吸い込んで吐き出すと、頭がクラクラした。もう一度、
肩で呼吸するようにして煙を吸い込み、大きく吐き出すと、ファンの流
れを逃れるように、その煙の一部が、「幸福の木」にとどいた。枯れた
葉先にまとわりつくように、薄くなった煙は複雑な流れ方をして、あっ
けなく消えていった。
私は、ふたたびE中学の記憶を辿ってみることにした。咄嗟に頭に浮か
んできたのは、雪の思い出だった。同級生が多くさんでてきそうな記憶
といえば、この雪の思い出をおいて、他にはないような気がした。正確
には、雪の結晶の思い出だ。
中学に上った年の冬、私は父に顕微鏡を購ってもらった。雪が見たか
ったのだ。
北陸の雪は、いつの冬でも大袈裟に舞い降りてくる。
私は冬の越前浜で、初雪の降るとき、きまってその大きく、ゆらりゆ
らりと舞い降りる雪を待ち受けた。一杯に口を開いて待っていると、雪
の方から、静かに、群らがるようにして、私の舌を目がけてゆっくりと
落ちてくるのだ。舌に触れるか触れないかの危い寸前に、雪はなんの感
触も残さず消えてしまう。まるで、探している犯人が、完全犯罪を企む
かのように、音も匂いも残さずに失くなってしまうのだ。私の掌に、次々
と争うようにして乗る、夥しいほどの雪たちも、ことごとく、全て同じ
ことだった。
掌には薄っすらと水気が残り、やがて、その湿り気さえも、どこかに
消えて失くなってしまう。
私は、この雪の正体を識りたくて、父に顕微鏡をせがんだのだった。
長方形の小さな薄いガラスに、降り落ちる雪を乗せようと待ち受けて
いると、雪はガラスに触れ、すぐに消えてしまった。ガラスを冷めたく
しても、時間の差こそあれ、雪は徐々に姿を変えると、やがて、たより
なく消滅してしまうのだ。
私は、舞って降り落ちる雪を諦めた。気落ちしながら、幾枚かあるガ
ラスプレートの一枚を、思い切り放り投げた。降り落ちる雪に向って投
げられたガラスは、こまかい雪の合間から射している陽の光に微妙にあ
たり、弱い冬の陽の光線を屈折させてキラリと輝いて、薄っすらと積も
っている、綿のような雪の中に消えた。
踏みかためられた雪を、新しいガラスプレートを取り出して掬ってい
ると、見知らぬ女学生がふたり近寄って来て、無言で、私に白いかたま
りのような小さなものを差し出した。掌にとってみると、それは、私が
いましがた、悔しまぎれに放り投げた、ガラスプレートだった。
ガラスプレートには、降り落ちてきたばかりのやわらかそうな雪が、
形を失うことなく、まるで降り落ちる雪を掬いとったかのように、見事
に張りついていた。
掌にとると、その幾つかが震えるようにゆっくりとこばれ落ちた。
礼を言ってから、私はそのプレートを、おそるおそる顕微鏡の反射鏡
の上に差し入れた。レンズをのぞいた瞬間、私は悲嶋をあげそうになった。
雪は、雪とは思えぬほどに、美しく姿を変えていた。
幾重にも重って密集した中から、天が造ったとしか思えない、複雑な
形をした、先の尖った矢が、それぞれ、勝手な方に向って突き出ていた。
密集から逃がれたように、ひとつだけ離れたところにある結晶は、ことの
ほか見事に、反射された陽の光を吸収して、みずから光揮いていた。顕微
鏡の本体をゆっくりと動かし、陽に向けて角度を変えてやると、それらは、
全体がひとつの結晶のかたまりのようになって、先程よりは一層、輝きを
増して、鋭い光を発した。
気がつくと私は歓喜し、ガラスプレートをひろってくれた女学生や、周
囲にひとかたまりとなって騒ぎたてる生徒たちに、その不思議な世界を披
露していた。
降りつづける大きな牡丹のような雪は、差し入れられたガラスプレート
に偶然に落ちては、さらに重り合い、めまぐるしく様相を変えて、光り輝
いた。
それらの記憶は、いまでもはっきりと、私の脳裏に焼きついて離れない。
あの不思議な世界をのぞきこんだ生徒の中に、鏡子がいたとは考えられ
ないが、鏡子から電話があったとき、E中学にいた頃、僕は、こんな風に、
福井の雪を見ていたんだと、教えてやるのも悪くないことだと思えた。
それにしても、鏡子はなぜ私のことを憶えているような気がすると言
っているのだろう。なんとなくアルバムを見ていて、そんな気がしたの
だろうか。それとも本当に、私と鏡子はどこかで逢ったことがあるのだ
ろうか。
私はソファに横になると、そんな事実なんかあるわけがないと、自分
に言い開かせた。私の記憶がいくら曖昧だと言っても、それほどひどく
はないはずだという思いもあった。
白いざらついたコンクリートの天井に、プツブツと浮き出ている粗石
をみながら記憶をまさぐっていると、ふいに思い浮かんできた顔は、東
尋坊で一緒に船に乗った、いましがた思い出したばかりの、友人のもの
であったり、その父親の日焼した赤銅色のものだったりした。どういう
わけか、本気になって殴り合ったことのある、小児麻癖でいつも片足を
ひきづっていた、Sという友人の顔までもが、ざらついたコンクリートの
スクリーンに鮮やかに浮かび上った。
あなたが一番遠くの土地にいるひとだからよと言った鏡子の言葉が、
ふと憶い出された。
その言葉を頭の中で反芻しながら、なおも天井をみつめていると、顔
の輪郭の判然としない女が、ぼんやりと、霞のかかったような像となっ
て現れ、小児麻輝のSの顔と入れかわった。やがて、その顔は、わずかに
輪郭をはっきりさせた。私は鏡子であるのか圭子であるのかわからない
その顔を追い続けた。が、すぐにその顔は不鮮明なものとなって消えた。
私は記憶の失い女について、改めて思いを巡ぐらした。
正確には、記憶のない鏡子についてなのだろうが、記憶の失い女の方が、
いまは、私にとっても、鏡子にとっても相応しいような気がした。
記憶を失くした女が、自分の過去を追い求めることに急に不安になり、
最も自分のことを過去に知っていた者を避けるということはないのだろうか。
私は、疲れきった頭で、ぼんやりとそんなことを考えてみた。
記憶の失くした女の身近にいる者は、最もその女を知っているひとた
ちだ。それらのひとたちから、失くした記憶を迫られることは、当り前
のようにも思えるが、本人にとっては、苦痛であることも十分察しがつく。
いや、苦痛の方が、はるかに勝るものなのかもしれない。
鏡子は逃げたのだ。
ふいに、そんな確信めいた考えが閃いた。
自分のことを、もっとも知らない者を追い求めて逃げたのだ。おそら
く、アルバムに写っている同級生なら、誰でもよかったにちがいない。
そして、現在の自分から、一番遠くに離れている者が、鏡子にとっては、
最良の相手だったということになる。
私は考えることを止めた。
思考の停止した頭の中枢では、それでも、波のように押し寄せる疲れ
だけを、敏感に感じていた。
漁師の父親をもつ友人やSの顔が、ふたたび意味もなく浮かんでは消え
た。白い空白になった頭の中では、大きくゆらめいて降り落ちる雪が、
わずかに陽の光を受けて輝いていた。その光景も、一瞬のうちに消えて
失くなった。
いまあるものは、鏡子にかわって、たったひとりの、E中学の頃の自分
だけのような気がした。
目を閉じると、目蓋が自分のものでないように重く感じられた。熱を
帯びているように熱かった。が、それでいてざらりとして、カサついて
いるようだった。
ゴォーというファンヒーターの吐き出す音だけが、大袈裟に部屋中に
響いている。すっかり慣れてしまった耳には、心地よい金属音のようだ。
このまま、眠りに落ちこんでしまいそうなほど、気持ちよく、連続して
ファンは鳴りつづけている。
電話が鳴った。
吐き出されるファンの音に重り、どこか歪んで聞こえた。
歪んでいるのは、眠りに誘い込まれている、頭のせいかもしれない。
私は身を起し、受話器を取った。
―随分、長い電話だったのね―
鏡子の屈託のない声が、はっきりしない頭の中にひびいた。
<了>
| 固定リンク
「小説・エッセイ」カテゴリの記事
- サルティホテル(3)(2009.11.16)
- サルティホテル(2)(2009.10.31)
- サルティホテル(2009.10.24)
- マクドナルド(2009.07.26)
- 図書館(2009.06.07)





コメント