遠い残像(二)
―あの頃のこと、なにか話してくれないかしら―
―電話をくれたのは君の方なんだから、君が話すといいじゃないか。
何か、僕に用があってのことなんだろうから―
ー用件がなくては電話もできないのかしら。そんなことってないと思うわ。
わたしだって、山科君に電話をするまでには、随分と勇気が必要だった
のよ。あなたが、函館に住んでいるってことを探し当てることだって、
大変な苦労だったわ。でも、そんな苦労をあなたに話したってしょうが
ないじゃない。わかってくれるはずがないもの、言いたくないわよ。そ
んなこと、あなたが聞きたいだなんて思わないし、つまらないことだわ。
それより山科君、あなた桜井さんのこと好きだったの?―
―桜井さんってどういうひと―
―まあ、とぼけているのね。わたしにはかくしても駄目。圭子さんは、
あなたのことよくご存知よ。わたしより、余程詳しく知っているわ。理
科の実験で、カエルを解剖した話も圭子さんから聞いたのよ。それにま
だあるわ・・・ー
―僕が、カエルを切り刻んだというの?―
私は、鏡子の話を遮るようにして言った。
鏡子は、そう、とだけ言って話の続きを待っているようだった。
私は、ぼんやりと憶い出しかけた。その実験について、鏡子に話そう
と思ったがやめた。事実は、鏡子の思っていることとは、まったく異っ
ていた。たしか、メスを持たされた私は、教師に、こんな残虐なことは
できないと断ったのだ。いかに生物の生体を識る実験とはいえ、生きて
いるものの腹を裂くことなど、到底私にはできないことだった。意気地
なしとでも言うように、教師は私を嘲笑い、メスを取ろうとしたとき、
そのメスがふたりの手を離れて、実験台に落下したのだった。
麻酔注射を打たれて眠る、カエルの脚の付根にメスは突き刺さり、鮮
血が飛び散った。一瞬の出来事だったが、どうも、その後の記憶は曖昧
になっている。
―桜井さんは、他にも僕のこと何か言っているのかなー
―やっぱり好きだったのね―
―いや、ちょっと心配なだけさ―
―なにを?―
―いろいろさ。多分、僕が、桜井さんのことを憶い出せないせいかもし
れない。知らないひとが、僕のことを詳しく知っているなんて、それが
心配なんだ―
―不安なのね。その気持ちよくわかるわ。本当に憶い出せないようね―
―憶い出せない―
―わたしと一緒ね。ううん、これは別の話。でも山科君は圭子さんとデ
ートもしているのよ。お船の学校ヘ行っていた夏休みに、福井にもどっ
て来て、二人だけでお逢いしているはずだわ―
―そうかなあ―
―ずいぶん冷たいひとね―
私は、曖昧に相槌を打ちながら、桜井という女のひとよりも、俵鏡子
について真剣に考えていた。鏡子の話にはやはり無理がある。カエルの
解剖もそうだが、いくら私がだらしない性格の男だといっても、二人で
逢ったことのある女のことを忘れるはずなどないからだ。そんな、すぐ
にもばれてしまいそうな嘘を、何故平気で鏡子は言うのだろう。
電話器のコードをグルグルと左掌で弄びながら、私は富山にある、鏡
子のいう船の学校のことを思い出していた。福井から富山の学校へ行っ
たことを、鏡子が知っているということが、複雑に話を混乱させている。
福井E中学から、その年に富山の学校へ行ったのは、私ひとりしかいない。
電話線の向うに繋がる鏡子の顔を想像しようとこころみたが、無駄な
ことだった。鏡子には私の顔が想像できるのだろうか。
私は、わけのわからぬ覚悟を決めた。
新しい煙草を取り出して火をつけると、思いきり吸い込み、大きく吐
き出した。諦めに似ただらしのない溜息が、送話器にぶつかり、かさつ
いた音を響かせた。
―なにを考えていたのかしら―
―君や、桜井さんのことにきまっているさ―
―そう、でも憶い出せないのね。無理しなくていいのよ、きっとそのう
ち憶い出すわよ。ところで、山科君は子供は何人いるのかしら―
―残念ながら、妻はいるけど子供はいないんだ―
―やっぱり結婚しているのね―
―この歳で結婚していないなんて、世間がなんて言うかわからないじゃ
ないか。君だって・・・ー
―欲しい?―
ーなにを?―
―子供よ。そんなに残念なことかしら、子供がいないって―
―いるほうが自然だろうね。つまり、この歳になればー
―年齢の話なんか訊いていないわ。子供よ、子供が欲しいかどうかを訊
いているのよ―
―いまさらどうにもならないさ。いればいいなと思うことはあるけど―
―あげましょうか。大丈夫、わたしの子だから。女の子よ―
―悪い冗談はよしてくれないか。それでなくても疲れているんだから―
私は時計を見た。ビデオデッキに組込まれたデジタルの数字が、音も
なく、午前の一時と八分に変わったところだった。
―でも、子供なんていないほうがいいのよ。迷惑ばかりかけるし、生後
一、二年なんてまるで戦争よ、身がもたないわ。お乳を飲む子供を、あ
なたは見たことがある? 当り前のことだけど、わたしは見たわ。そし
て思ったのよ。ああ、この子は、わたしの生命を少しずっ吸い取ってい
るんだわって。生命を与えている歓びなんて、あれは嘘よ。平気で縋り
ついてくるんですもの、怖いくらいだったわ。あの顔は一体なんなのか
しら。それにね、顔の輪郭がはっきりしだしてきたとき、なんとなく見
ていたんだけど、ゾッとしたわ。女の子なのに、主人の顔に瓜ふたつに
見えるのよ。生きものって、人間も含めてそうなんだけど、それまで、
わたし、それぞれすべてがまったく異るものだと思っていたわ。いえ、
きっと異るはずなのよ。異っていなくてはいけないのよ。主人と生写し
だなんて信じられないことなのよ。それがわたしの胎内で、わたしの知
らないうちにつくられていたなんて、そのとき、つくづく気味の悪い感
じがしたわ。山科君だって、現実に、自分に似ている生き物が、手や足
を動かし、呼吸までしているのに出くわしたら、きっとびっくりするに
きまっているわ―
―それは、少しちがうような気がする―
―少しもちがわないわ―
―もし、そうだとしても、それはそれで神秘的なことじゃないか・・・―
―なにが神秘的なものですか。軽がるしく、そんなこと言わないほうが
いいわ。そう言えるだけあなたは幸せなのよ。子供なんていなくても、
あなたは幸せなのよ。がっかりだわ―
―軽がるしくなんて言っちゃいないさ。そう思うだけなんだから。君だ
って、少し考え過ぎのところがあると思うよ―
―山科君、子供は子供でたいへんなのよ。生れたくて生れてくるわけじ
ゃないのよ、わかるわね。いつか、気がついたらそこにいるのよ。どこ
かわからないけど、みな、それぞれにわからない処にいることに気づき、
わたしは、どうして、こんなところにいるのだろうって思うわけ。その
ときが、多分、苦しみの始まりね。気がついてしまったら自分がいるん
ですもの、こんな理不尽なことってないわよね。子供にだって理不尽は
あるのよ。山科君にだってあったと思うわ、隠したって駄目。きっとあ
ったはずよ。わたしだってあったわ。いつか、きっと、わたしの子供に
だってあるはずだわ。そんなときは、やさしくしてあげるのよ。大抵、
そんなときって、まだ子供の心しか持っていないんですもの、とても不
安なのよ。それが母親のつとめっていうものなんだわ。親の責任よ。親
の責任について言っているのよ―
鏡子は昂奮しているのか、息を荒くして一気に言った。
割れるように受話器で響いた声が、耳の中でも反響をくりかえしていた。
なぜかしら、私は、母親か姉にでも怒られているような錯覚をおぼえた
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