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2005.12.29

遠い残像(六)


            3

 ベッドに横になり、ぼんやりと雑誌を読んでいると、電話が鳴った。
 私は、すぐ傍にある時計をみた。雑誌を枕元に放り投げて立ち上ると、
なぜか、相手が鏡子であるにちがいないという予感がした。
 居間のスイッチを押すと、円筒をした蛍光灯が、音も立てずチカチカ
と瞬きを二度、三度くりかえし、部屋全体を明るく照らし出した。
 受話器を取る前に、ファンヒーターのスイッチを入れた。これで、な
んとなく準備が整い、安心して鏡子と話せるような気がした。

―山科さんですね―
 受話器を通して耳にとび込んできた声は、想像していた鏡子のもので
はなく、聞いたことのない女の声だった。妻の友人にちがいないと思い、
妻の名前を相手に伝え、しばらく待ってもらうよう、言おうとした。声
だけでいつも想像している、鏡子という女が、霞のかかった判然としな
いまま、遠のいて行った。
―いえ、山科さんでいいんです―
 女が私の言葉を追うように、急きこんで言った。
―夜分、それも突然で申し訳ないのですが、わたし、桜井圭子といいま
す。はじめましてと言うのも変ですけど、でも、ご存知ないと思いますが、
福井で同級だったことがあるんです。多分、鏡子さんから聞いていると
思いますけど、現在、大阪なんです。無理を言ってすまないのですが、
少しお話しても、かまいませんか? ―
 桜井圭子は遠慮がちに、それでいて、鏡子とは異い、落ちついた口調
ではっきりと言った。やはり、どこかに、関西特有のアクセントが感じ
とれた。鏡子もそうだが、福井と大阪のなまりが、ひとつになったような、
粘着性をもったアクセントだ。
 そうは言っても、私は福井の言葉なまりなど、すっかり忘れてしまっ
ている。
―きっと、山科さんは驚かれたことだと思います―
―いまも驚いているんです。でも、はじめの頃よりは驚かなくなりました―
―申し訳ないことだと思います―
 圭子はそう言うと、少しの間黙り込んだ。
―すみません―
―詫びられることなんてありませんよー
 私は、いま自分が思っている本当のことを言った。
 桜井圭子という女に詫びられることなどないのだし、鏡子の電話にし
ろ、はじめの頃ほどより、不快な気持ちなどなくなっていた。受話機を
持ち直しながら、自分でも、それは可笑しなことだと思った。
―いきなり、こんな質問もどうかと思うのですが、鏡子さんは山科さん
に、どのようなことをおっしゃっているのてしょうか―
―同級生だったと言っています。僕は憶い出せないのだけどー
―そうですか。でも、それは本当なんです―
―あなたにまでそう言われると、僕は、どう言っていいのかわからなく
なってしまう―
ーでも、クラスは別でしたの。わたしも、鏡子さんも、山科さんもそれ
ぞれにクラスほ別だったんです。鏡子さんは、そう思いたいだけなんで
すわ―
―思いたいだけ? でも、鏡子さんは、同じクラスだったとは言っていま
せんよ―
―そうですか。わたし、てっきり鏡子さんが、同じクラスだとおっしゃ
っているとばかり思ってしまって。でも、安心しました―
―きっと理由があるのでしょうけど、鏡子さんが、卒業アルバムに、あ
なたも私も一緒に写っていると言っていたのは何故ですか。それに、理
科の実験のことも話していた―
―カエルの解剖の話ですね―
―知っているんですかー
―鏡子さんから聞きました。山科君、驚いていたわって、嬉しそうに話
してくれましたから。でも、それにも理由があるんです。御迷惑をおか
けして、たいへん申し訳ないと思っています―

 私は鏡子のときのように、白い電話器の本体を、 フックが落ちないよ
うに注意深く持ち上げると、ソファの前にある、ガラステープルの上に
そっと置いた。カタンという軽い音を聞いてから、遊んでいるコードを
ゆっくりと引っぱり、それから、ソファに腰をおろした。いつの頃から
か、そんな癖がすっかり定着している。年寄りのように、深く身を沈め
るようにして背もたれに寄りかかると、数字の張りついているような、
ゴムでできたプッシュボタンにそっと触れてみた。ボタンは意外とざら
ついていた。

―どうもわからないことばかりなんだけど、訊いてもいいですか―
―それで、こうして電話をしたのです。山科さんに、全てを知っていて
もらいたいと思って。きっと、こうなることはわかっていたんですけど、
遅れてしまったこと、本当に謝らなければいけないと思っております。
責任はすべてわたしにあるのですから、どうか、鏡子さんを責めないで
下さい。鏡子さんは、いま、とっても重い病気にかかっているんです―
―病気?―
―そうです。お医者は、治る可能性はわずかだと言うんです。でも、似
たような患者で完治したケースもあるから、決して諦めないで、根気よ
く治療にあたろうと言ってくれているんです。鏡子さん、過去のことす
っかり忘れてしまっているんです。そんなに遠い昔のことばかりじゃな
くて、御主人や子供のことまでも、まったくいまは憶えていないんです―
―記憶喪失?―
―そう、とてもお気の毒なの。突然、災難の方から鏡子さんに襲いかか
ったようなものなんですもの。まったくの事故なんです―
―事故に遭ったんですか―
―自動車事故なんです。鏡子さん、小学五年生の娘さんを自家用車に乗
せて、週に三回、水泳教室に送っていたんですけど、一年前に、青で進
入した鏡子さんの車に、信号を無視した若いひとの車が暴走して、横か
ら衝突したんです。鏡子さんの車は、横転して、歩道にある電柱にぶつ
かって、ようやくのことで停ったそうです。それで、鏡子さん記憶を失
くしてしまって……。
でも、検証の方も、お医者も言ってらしたけど、生きていたのが奇跡な
んですって。鏡子さん、グシャグシャに壊れた車の中で、助手席の娘さ
んに、重るような姿勢だったと言うことでした。本当にお気の毒―
―子供はどうなったの―
―愛ちゃんって言うんですけど、愛ちゃんは、頭に軽い傷だけで済んだ
んです。それから鏡子さん病院に運ばれて、二日も昏睡状態がつづいて…。
傷だらけになって管を通され、カプセルのような吸入器を被せられ、御
主人が外国なものだから、わたしがずっと付きっきりだったんですけど、
室の外に出されて、ただ、祈るばかりでしたわ。担当のお医者は、お気
の毒ですが保ちませんよって、はっきりしたものでした。鏡子さんは、
あのとき、本当に死んでもおかしくなかったんです―

 圭子は、そのときの事を思い出しているのか、そこまて言うと、声を
つまらせた。さらさらとした息が、受話器を伝ってきた。
 私は凝っとしたまま、圭子が次に何を言うのかを待った。ぼんやりと、
受話器を持ったまま前方に目をやると、テレビの横にあるステレオのス
ピーカーの上に乗った、葉先の枯れかかった、観葉植物の白い鉢があっ
た。冬だというのに、葉先の枯れかかった葉は二葉ばかりで、他の五、
六葉は、枯れることなく、鮮やかな緑色をして、勢いよく、放物線を描
くように垂下っていた。鉢の土中に立てられた小さな札には、「幸福の
木」と書かれてあり、妻が冬に入る前に、名前の珍らしさに魅かれて、
ス―パーで購ったものだった。思い出したときにしか水をやらないとい
うのに、「幸福の木」は溌剌としていた。いま、こうしてまじまじとそ
れを見ていると、名前のわりには、いかにもゴツゴツとした印象のする、
いかつい木だ。木の幹は太く、それが十二センチくらいの高さで、スッ
パリと真横に切られ、そこに至る途中の幹から、直接葉が突き出て、重
そうに葉先が放物線を描くように垂下っているのだ。値段が安かったの
は、おそらく、売る側でも一冬は保たないと踏んでいたにちがいない。
意に反して、「幸福の木」は、何が幸福なのかはわからないが、気味の
悪いくらい青々として、冬を越そうとしている。
 鏡子の娘のことを、圭子から聞いたわけではないが、なんとなく、
運に恵まれた生命というのがあるのかもしれない。

―すみません、悲しくなったものですから―
―いいんです、僕も聞くには辛い気がします―
―山科さん、子供はいらっしゃるのでしょうー
―鏡子さんにも同じことを訊かれました。いないと言ったら驚いていたー
―いけないことを訊いてしまったようですわねー
―かまいませんよー
―鏡子さんは、子供がいたから、命が助かったのかもしれませんのよ。
記憶が失くなってしまったんですけど、随分快くなってリハビリを受け
ているときに、医者が折をみて、鏡子さんに子供がいることをお教えし
たんですの。そうしたら鏡子さん、このひとは何を言っているんだろう
って顔をしていたらしいんですけど、それから幾日後かには、医者にお
会いする度、子供のことばかり訊くらしいんです。看護士さんたちも、
子供のためにも早く快くなりましょうねって励ますと、泣くような顔付
きになって、あのきついリハビリを、懸命になって克服していったらし
いんです。いまは、なんとか半身だけは動くようになったのですが、そ
れも、鏡子さんに、子供のために快くなろうという思いがあったからに
ちがいないんですわ―

 私は圭子に、鏡子が言った、子供が乳に、母親の生命を吸いとるかの
ように、囓りついてくるという話を言おうとしたが止めた。いけないこ
とを訊いてしまったようですわねといった、圭子と同じ気持が鏡子にも
あって、咄嗟にあのようなことを言ってしまったのだろうか。記憶の失
いひとの話に、真実はあるのだろうか。

ー鏡子さんは、いまでもリハピリに通っているんです。お家に帰ること
が許されて、通院しているんですー
―それで、彼女は記憶が失いのに、何故僕のことを識っているんです―
―あら、ご免なさい。そのことを言わなければと思っていたのに、すみ
ません。山科さんのことについては、わたしがいけないのです。鏡子さ
んが快方に向っているとき、記憶が戻るように、お医者は、あらゆる方
法で治療にあたったんです。御主人がサウジアラビアから急遽帰国して
面会したり、愛ちゃんが時間の許すかぎり病院につきっきりだったり、
幾人もの医者が代わる代わる面談したりとか、それでも、結局は駄目だ
ったんです。御主人のことも、愛ちゃんのことも、勿論わたしのことも、
まったく憶い出せないんです。それでも、愛ちゃんにだけはどうにか心
を許すって言うのか、我が子だと、自分に言い聞かせているようなとこ
ろがあったみたいなの。でも、御主人には、近づこうとしないんです。
これだけは、どんなに周りが努力しても、駄目だったみたい。いまも、
サウジからたまに見舞いに帰国しても、心を許して向き合っているとは、
とても思えないわ。まるで他人なの。御主人とは、結婚してから事故に
遭うまで、それは仲がよかったというのに、こんなことになってしまって、
御主人も可哀相だけど、わたしには、鏡子さんが本当にお気の毒に思え
るんです。いつ頃だったか、わたしがお見舞いにうかがったとき、E中学
の卒業アルバムを持って行ったのね。はじめ、鏡子さんは、無造作にパ
ラパラやっていたんです。わたしが、鏡子さんの必要なものを売店に行
って購って帰ると、どうも様子がおかしいの。凝っとアルバムを喰い入
るように見ているんです。それでわたし、これは不味いものを持って来
たかなと思って、疲れるから、もうおよしになったらって声をかけたの
ね。すると鏡子さんはいつもよりむずかしい顔をしていて、わたしに、
この男は誰かって訊くんです。わたし、E中学であなたのことを知ってい
たから、ああ、そのひとは、山科幸造君って言うのよって軽い気持で応
えたわ。山科さんはわたしのことをご存知ないかもしれないけど、陸上
で県の記録をつくったひとですもの、あなたのこと、他のクラスのひと
たちだって、大抵、知っていたと思うわ。ところが、驚いたことに、鏡
子さんはあなたのことを憶えているような気がするって言うんです。両
親や御主人や子供のことも判らなかった鏡子さんが、あなたの写真を見
るなり、このひと識っているって言うんですもの、わたしとても驚いた
わ。でも、どんなひとだったって訊くと、やはり何も憶い出せないのね。
それで、わたしが識っているあなたのことを、全てお話して聞かせてあ
げたんです。困ったことに鏡子さん、見舞いに行く度に、あなたのこと
をいろいろ聞きたがるんです。わたし、ほんとうに因ったわ。あなたに
ついて、お教えしてあげることを、そんなに識っていないんですもの。
それでわたし、鏡子さんに訊かれる度に、自分で自分の山科君をつ
くってしまったわけなんです。どうか、お怒りにならないで下さいね―
―カエルの解剖の話も、そのひとつってわけですか―
―他にもいろいろ沢山あるわ。でも、どうしても不思議なのは、山科さ
んのことだけ、どうして憶えているような気がするなんて言うのかしら。
失礼な言い方かもしれないけど、山科さんは、鏡子さんと、あの頃お逢
いしたことがあるのですか。それを一度訊いてみたいと思って、わたし、
内緒であなたの住所と電話番号を調べたんです。本当に失礼だとは思っ
たのですけど、富山にある、あなたの卒業した学校に連絡を取って、教
えていただいたんです。ご免なさいね―
―謝らなくてもいいですよ。でも、僕は彼女とは一度も逢ったことがな
いんだ―
―そうだと思っていました。でも、ほんとうにそんな事実がなかったの
かしら―
―嘘なんて言いませんよ。事情を知って、増々怖気づいているんだから―
―ご免なさい。でも、それがほんとうなら、まったく不思議な話だわ―
―いまも、鏡子さんからの電話だと思ったくらいなんですから。大抵、
このくらいの時刻だから―
―執拗に迫られて、わたし、つい電話番号を教えてしまったんです―
―そうだったのですか。ところでひとつだけ訊いてもかまわないかな。
俵というのは旧姓なの?―
―旧姓です。わたしがお教えしたの。でも、両親に対しても、何の反応
もないの。いまじゃ、タワラはそんなに意味のあることではないみたい。
鏡子さん、山科さんに、他にどんなことをお話しているのかしら―
―セーターを編んでいると言っていた―
―どなたの、山科さんの? ―
―そう、体型がわからないから、標準に合せて少し大き目にって言って
いた―
―そういえば、先日お家にうかがったとき、北海道は寒いんでしょうね
って、わたしに訊いていたわ。福井より寒いのよって言ったら、鏡子さ
ん、急にさみしそうな顔をして、福井の寒さも憶い出せないわっておっ
しゃって、悪いことを言ってしまったって、反省して帰りましたの。
でも、本当に驚くことばかりね―
―僕も、まったくわけがわからなくなってきた。どこかで逢ったことが
あるのかどうか、それさえ、何故か、自分でも自信がなくなってきた―
―そんなことでは困るわ。できることなら、ゆっくり時間をかけて憶い
出していただきたいわ―
―無理だと思うな。あなたの話をこうして聞いていても、心あたりがま
るでないのだから―
―やはりそうかしら―
―彼女の方から、憶い出すきっかけみたいなものを言ってくれるといい
のだけど―
―それだって、無理な期待ですわね―

 圭子はそう言って、肩から力を抜くように呼吸をしているのか、黙っ
てしまった。まるで、ふたりは、辿りつくことのない暗い迷路に這入り
込み、互いにあてもなく、勝手に、見つかることのない出口を探ってい
るようなものだった。
 私も、圭子にわかるように、大きく息を吸い、受話器に向って溜息をついた。

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