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2006.06.11

「危うい日」に思う

Akari

黒井千次著「危うい日」を読んだ。
“その日、男は朝から躓いた。”で始まる冒頭部分から惹くものがある。
一日の始まり、悪いことがあるとそれは三度ある。「二度あることは三度ある」と「三度目の正直」。
主人公の男の祖母はそう言って、二度目の禍事があったら早く転ぶ真似をして三度目をやり過ごせと教える。
朝の髭剃りで鼻に傷をつけ、煙草の火をズボンの上に落として穴を開け、三度目の正直を気にしながら男は医院に向かうため電車に乗るのだ。
先のエントリ「電車の中で」もそうであるように、この短篇集「一日 夢の柵」では電車内での出来事をモチーフにした作品が多い。面白いことに、電車内での出来事に興味を持っているのは、著者ならずとも私も同様なのは先のエントリに触れたとおりである。
老人ならずとも、電車の中というのは実に興味深いものなのである。

男は電車内で三人掛けのシートの真ん中の席が、坐るには心許ないが、隙を作って空いているのに気づく。
ひとりはスーツ姿の男で、もうひとりはジャンパーの前をはだけた、長い脚を通路に伸ばし、左右に思いっきり開いた大柄の男である。臍のあたりに構えた携帯電話のボタンを押し続けている。
いつもは黙ってそれを見過ごすだけなのだが、この度は違った。
ー座れ、という声が頭の裏の方から起こってー
男はそれを実行する。実行するというよりは、それは挑戦であった。
何に対する挑戦なのか。著者は挑戦とは言わず『賭け』といっている。
これが何事もなく終わってしまえば、医院で告げられる検査結果は良好な筈にちがいない。
二度あることは三度起きないのだし、三度目は正直ではないのである。

おまじないも迷信も信じないが、ふと気が付くと、知らぬ間にそれに浸っているということがある。
「霊柩車を見たら親指を隠す」なんてのは、子供の頃に教わった迷信で、それを守らなかったら親の死にめに会えないというものだった。「親の死にめ」というのがどういうものなのか解らずに、スッと両手の親指だけを隠している。そしてそれを無意識に今でも続けている自分がいる。
「明日天気になあれ」といって拍子を取りながら、足を思いっきり振り、下駄を遠くへ放り投げていたのは果たして迷信だったのか賭けだったのか。
ただ、作中の男の祖母が言っている、
『朝から鴉が鳴いたというだけで外出を取りやめたし、穏やかな日和でも玄関を出たところで下駄の鼻緒が切れたりしたら顔色を変えて引き返し、祖父の位牌のある仏壇の前に坐って線香に火をつけるのだった。』
という具合には行かない。

賭けの結末。
これは著作を読んでいただくとして、主人公の男が、ジャンパーの大柄男が電車内に忘れていった三個の鍵のついた環を、橋の上から川に捨てる場面には賛辞を送らずには行かない。ジャンパー男の生活の一部を抹消する。老人の復讐。いや、これは老人に限ったことではない。読者全員の復讐といってしまえば言い過ぎか...。
たとえそれが、
罰が当たるよー。
と、波紋のように祖母の声として男に聞こえてきたとしてでもである。

「危うい日」かどうか判らないが、たまたま今日が誕生日。
いよいよ『老』を意識する年齢になってしまった。
黒井千次氏のような悠々とした想いには未だ達していないが、そろそろ心の準備だけはしている。
心の準備をしていることはしているが、まだまだ電車内を観察する愉しみだけは旺盛だ。
誕生日プレゼントは、吉田カバン。
いうまでもなく、自分で自分に買ったもの。
明日からこれを肩に提げ、いつものように電車内を観察するのだ。
『老』を意識するとは実に怖いものである。合掌。



・『危うい日』は、黒井千次著「一日 夢の柵」に所収。
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