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2007.05.10

岸田劉生の軌跡

Ryuusei

岸田劉生と言えば麗子像。
麗子と言えば岸田劉生なのである。
それほど劉生は愛娘の絵ばかりを描いていた。わたしなどは劉生という画家は麗子しか描いていないに違いないと思ってるくらいだ。
そしてその愛娘の麗子であるが、どう見ても可愛くなく描かれ、その作品によっては亡霊のごときにぼんやりと佇んでいて、しかもその図が「麗子住吉詣之立像」のように提灯をぶら下げていようものなら、これはもう怨念に充ち満ちた亡者、平家の落ち武者を想像してしまうくらいなのだ。

五稜郭公園の花見時、期せずして満開の桜を背景にぼんやりと麗子が浮き立って見えた。
ちょうど桜のピンク色が眩しいくらいに鮮やかで、暗く沈んだ麗子像はやはり桜の背景にはどこか相応しくなかった。しかしながら、満開の桜の中から浮かび上がるような麗子像は不思議な印象を与え、今までにない劉生の企みみたいなものが解ったような気もする。

「劉生の軌跡」とある劉生展が函館美術館で開催される。
どれくらいの作品が持ち込まれるのか解らないが、「麗子住吉詣之立像」は展示されるのだろうか。展示されるのなら是非行ってみたい。そして真っ先に確認したいのは麗子の足だ。だが多分、それは叶わない。
麗子の足。
わたしが亡者と見た麗子立像を、向田邦子はこう見ている。

 若い時分は、劉生でいえば代表的な「麗子」の像が好きだった。ところが、いま一番心をひかれるのは同じ麗子の像でも「麗子住吉詣之立像」なのである。マーガレットと呼ばれた毛糸編みの肩掛けを羽織り、くすんだ朱色の絞りの着物を着た麗子が、三段重ねのアコーディオンのような奇妙な形の提灯を下げている立ち姿である。
 若い時分は、この絵の持っている暗さ薄気味の悪さがひとつ好きになれなかったが、いま見るとゾクゾクするほど好い。
 夜は暗く冬は冷たく、神社やお寺のお詣りは、はしゃいでいるようなもののどこか恐ろしい。子供の頃、漠然と感じていたものが、みごとに一枚の絵になっている。更にもうひとつ、素足で立つ幼い麗子の足の、親指と人さし指の間が離れているのに気がついた。下駄をはいて育ったまぎれもない日本人の足なのである。
(向田邦子著「無名仮名人名簿」中『麗子の足』より)

さすがに向田邦子の視点は鋭い。
麗子は、夜の暗さ、冬の冷たさの中でいかにも不安に襲われ心細く、神社の鳥居の前で引き返したいくらいなのだ。それを誰が誘ったものか、お詣りだなんて、ああ、なんて恐ろしい。早く帰りたい。父はどこへ行った。母はどこだ。提灯の明かりが消えそうだ。こんな毛糸の肩掛けだって何の役にも立ちゃしない。世はなんて不条理なんだ。怖いったらありゃしない。どなたかお助けを。すでに悲鳴を上げそうなのである。
そんな子供の心情がこの一枚の絵にあるという指摘はやはり向田邦子なのであろう。

そして麗子の足。これはどうしようもなく降参である。麗子は日本人なのである。ゾクゾクはしないけど、ゾッとはする。ゾッとはするけど、麗子の足が日本人の足であることにホッとした。この夏は下駄だ。我が足をそっと眺める。
麗子の足、これは是非とも観察したいものである。

「岸田劉生の軌跡」。
時期は6月、桜が終わってライラックが咲き始める、北海道の初夏の始まりである。
そんな初夏の風を受けて、麗子は微笑んでくれるだろうか。

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