おまじない

南教授は腕時計に目をやった。
長針は3分しか進んでいない。
電池を交換したばかりだというのに時間は恐ろしいほどスローなのだ。
1050円が安かったせいなのか。
「1050円に相応しい時の流れというものがあるのだな」
南教授は妙な納得をした。
時計屋を出て隣の本屋に入ると一冊の文庫本が目にとまった。
『人のセックスを笑うな』
南教授は文庫を開くでもなくレジに行き金を払った。
レジのおねえさんがちょっとだけ笑ったので、それに合わせて南教授も薄く笑った。
人のセックスなんて興味はないが、それでも気分は上々だった。
タイトルが頭の中をくすぐる。
今度は自然と笑いがこみ上げてきた。
すれ違った若い女が気味悪げに南教授を避けた。
次の老夫婦もさりげなく南教授に道を譲る。
行き交う老若男女のすべてが南教授を避けて通る。
笑うということがこんなにもサディスティックな行為だったとは。
南教授の快感は高まった。
電車に乗ると派手なネクタイの大男が足を組んで座っていた。
南教授は大男を避けようとした途端足がぶつかり、同時に『人のセックスを笑うな』を思い出してしまいニヤリと笑った。その笑いは潮が満ちるようにじわじわと南教授の顔面に広がって行く。
済まなさそうに大男に目をやると、大男は席を立ち姿をくらましていた。
笑うという行為が南教授に自信をみなぎらせた。
おまじないである。それからというもの南教授はことあるごとに笑った。
混雑するホームは勿論、惣菜を物色して歩くデパ地下でも不気味に笑って闊歩した。
面白いくらいに人混みは二つに裂け道をつくった。それは昔観た映画で予言者モーゼが海を真っ二つにした『出エジプト記』に似ていた。
その日の夕刻である。
「おじさん、何がそんなに可笑しいの?」
ホームで一人の園児が南教授の前に立っている。
「うむ・・・」
何がそんなに可笑しいのか。
突然の質問に南教授の顔は引き攣った。
破れた衣を注視するかのように園児は南教授の顔を興味深げにじっと見つめている。まるで動じない。不動尊のように動かない。
子供は人のセックスなんて笑わないのだ。
携帯が「愛しのエリー」を奏でた。
エリからのメールだ。
園児に背を向けると南教授はメールを開いた。
エリは23歳になる南教授の彼女である。
『還暦オメデトウ。ハート』
南教授は神妙になった。
神妙になったあとで声を殺して笑った。
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