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2008年10月に作成された記事

2008.10.31

おまじない

Card

 南教授は腕時計に目をやった。
 長針は3分しか進んでいない。
 電池を交換したばかりだというのに時間は恐ろしいほどスローなのだ。
 1050円が安かったせいなのか。
「1050円に相応しい時の流れというものがあるのだな」
 南教授は妙な納得をした。
 時計屋を出て隣の本屋に入ると一冊の文庫本が目にとまった。
『人のセックスを笑うな』
 南教授は文庫を開くでもなくレジに行き金を払った。
 レジのおねえさんがちょっとだけ笑ったので、それに合わせて南教授も薄く笑った。
 人のセックスなんて興味はないが、それでも気分は上々だった。
 タイトルが頭の中をくすぐる。
 今度は自然と笑いがこみ上げてきた。
 すれ違った若い女が気味悪げに南教授を避けた。
 次の老夫婦もさりげなく南教授に道を譲る。
 行き交う老若男女のすべてが南教授を避けて通る。
 笑うということがこんなにもサディスティックな行為だったとは。
 南教授の快感は高まった。
 電車に乗ると派手なネクタイの大男が足を組んで座っていた。
 南教授は大男を避けようとした途端足がぶつかり、同時に『人のセックスを笑うな』を思い出してしまいニヤリと笑った。その笑いは潮が満ちるようにじわじわと南教授の顔面に広がって行く。
 済まなさそうに大男に目をやると、大男は席を立ち姿をくらましていた。
 笑うという行為が南教授に自信をみなぎらせた。
 おまじないである。それからというもの南教授はことあるごとに笑った。
 混雑するホームは勿論、惣菜を物色して歩くデパ地下でも不気味に笑って闊歩した。
 面白いくらいに人混みは二つに裂け道をつくった。それは昔観た映画で予言者モーゼが海を真っ二つにした『出エジプト記』に似ていた。
その日の夕刻である。
「おじさん、何がそんなに可笑しいの?」
 ホームで一人の園児が南教授の前に立っている。
「うむ・・・」
 何がそんなに可笑しいのか。
 突然の質問に南教授の顔は引き攣った。
 破れた衣を注視するかのように園児は南教授の顔を興味深げにじっと見つめている。まるで動じない。不動尊のように動かない。
 子供は人のセックスなんて笑わないのだ。
 携帯が「愛しのエリー」を奏でた。
 エリからのメールだ。
 園児に背を向けると南教授はメールを開いた。
 エリは23歳になる南教授の彼女である。
『還暦オメデトウ。ハート』
 南教授は神妙になった。
 神妙になったあとで声を殺して笑った。

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2008.10.21

ガンガズンバ

「文学は不毛なり。神の憤怒を畏れよ」
 南教授はいつもの飲み屋で焼酎をあおり、イエス・キリストが無知な大衆に向かって演説したように力を込めて言い放った。聞いているのは酒場に集うほんとうの無知な学生という大衆である。
 近頃の学生というのは無知なくせに謙虚さというものがまるでない。
 南教授の憤りはいつしか神の憤怒にとって代わり、確実に量の増えてゆく焼酎の濃さは、暗澹たる思いと伴に南教授の正義を攪乱させた。
「ガンガズンバ、ガンガズンバ。ガンガズンバ、ガンガズンバ」
 薄暗い店内のスピーカーからアフロ系の音楽が流れている。
「ガンガズンバ、ガンガズンバ。ガンガズンバ、ガンガズンバ」
 野太い声に絡んで太鼓の音がリズムを刻み、ホイッスルの音が響き、音量が渦を巻いて逆巻くような錯覚を覚える。
「かつてオオエは死者と生者の対比を見事に画策したのだ」
 南教授の大衆への演説は、まさにアフリカのガンガズンバだった。
 ガンガズンバに掻き消されまいと携帯が震えた。南教授はいつだってマナーモードなのだ。
「失礼」
 南教授は席を立ち、ぼんやりした照明の店内の隅まで歩きメールを開いた。
「ミナミちゃん、私の先月の生理はいつだったかしら」
 エリからだった。
「うむ」
 南教授は唸った。
「ガンガズンバ、ガンガズンバ。ガンガズンバ、ガンガズンバ」
 アフリカがうねっている。
「たしか、15日じゃなかったかしら」
 南教授は無知な大衆などには目もくれず、死者と生者の対比の画策など放り出して、懸命にキーを叩いた。彼女を怒らせてはいけないのだ。
「ミナミちゃん、私の生理日忘れたの?」
 南教授は焦った。焦ると大きく丸い親指が携帯のキーを思いっきり外れる。汗が吹き出てきた。またメールが飛んできた。
「ミナミちゃん、生理日は誕生日と一緒なの。大事な日なんよ。ハート」
 南教授は目眩を覚えた。焼酎のせいばかりとは思えなかった。
「ガンガズンバ、ガンガズンバ。ガンガズンバ、ガンガズンバ」
「ガンガズンバ、ガンガズンバ。ガンガズンバ、ガンガズンバ」
「ガンガズンバ、ガンガズンバ・・・」
 不覚にも、南教授の記憶はそこでプツリと切れた。

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2008.10.19

 僕は腕時計を見た。電池を交換したばかりだというのに、昨日と同じ速度で時計の秒針が今日の僕の時を刻んでいる。空を見上げた。すっかり晴れわたった雲ひとつ無い空が僕の頭上一面に広がっている。公園の空。そして公園のベンチ。僕は晴れの日も雨の日もこのベンチに腰をかけ、そんな空を見上げる。そして煙草に火をつけ、9時ちょうどになったら、公園に設置された時計の小鳥の鳴き声に急かされるようにしてその場をあとにする。小鳥の鳴き声は晴れた日には澄みわたり、雨の日にはうんざりするくらい憂鬱な声になって僕には聞こえる。
 僕は今日も小鳥の声を聞いている。いや、9時にはまだ早いからそれはいつもの小鳥ではないことに気づいた。「チュー、チュッチュッチュ。チュー、チュッチュッチュ」どこか重たい鳴き声。やはり、いつもの小鳥の鳴き声ではない。公園をすっぽり包み込んでいる木々を順に目で追うと、ちょうど正面のひときわ大きな木の中程の枝に黒くて小さな物体が確認された。物体はゆっくりと動き、枝を飛び移り、そしてたまにきょろきょろと周囲を睥睨している。
 僕はこの小さな物体が、公園の時計に組み込まれた小鳥の鳴き声にどう反応するのか気になった。相手は人間が作った機械である。小さな物体とはいえ、こちらは生暖かい血が体内を縦横に、かつ体の末端隅々まで流れている生き物だ。
 煙草の火がすでにフィルター近くまできたのも気にせず、僕は9時を待った。
 果たして9時になると、時計に組み込まれた小鳥はいつものように「チッ、チッ。チッ、チッ」と機械的に、それでいてどこか嬉々とした色調を帯びて鳴きはじめた。僕にはいつもとちがって先に生身の鳥の鳴き声を聞いたせいか、この「チッ、チッ。チッ、チッ」がいかにも機械的ではなく、生き物の粘着性に満ちたしつこい湿り気みたいなものを含んだ鳴き声のように感じられた。それは生き物につられて今まさに時計に組み込まれた小鳥が、我を忘れて生き物として化身したような奇妙な錯覚だったにちがいない。
 時計にふと目をやると、それまで時計の下段の巣にたたずんでいたはずのブロンズでできた小鳥の姿はなく、その刹那、乾いた木立を揺り動かす風と共に黒い物体が枝の隙間を縫い、きれいな飛行線を描いて僕の目の前をかすめるようにして消えていったのである。

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2008.10.11

すだち

 鳴門大橋を臨んで南教授はため息をついた。
 眼下に広がるはずの渦潮がない。
 だらりとした海が、まるで池のようにだらしなく息を潜めている。
 そんな鳴門海峡である。渦の道。
 職員旅行でやってきた南教授は、この五百メートルもの海峡に架かった橋の歩道を歩かなくてはいけないのだ。
「雪中行軍だな」
 南教授は9月だというのに、頭上から容赦なく照りつける忌々しい陽光に汗を拭いながらそう思った。
「キャー、こわい」
 若い事務員の女子が前を歩き、屈託なく叫んでいる。
 まもなく還暦を迎える南教授の足取りは重い。
 雪中行軍は南教授にとっては拷問なのだ。
 エリからメールが飛んできた。こんな海峡の上にまでメールは飛んでくるのか。
 不思議な思いのまま、南教授はメールを開いた。
『父、死す』
 それだけだった。
 エリの父という人は南教授とあまり年齢が違わない。
 途中で買ったすだちの一杯入った紙袋を南教授は胸の位置まで持ち上げ、その香りを意味もなく嗅いでみる。青臭いひなびた柑橘の香りが鼻腔にからみつく。ジュウジュウと焼き上がったばかりの秋刀魚にこのすだちをぶっかけビールをあおる。きっとエリも喜ぶだろう。南教授はこんな行軍を今すぐにでも放棄して家に帰りたかった。
『父、死す』
 南教授はメールに返信するでもなく、携帯をパチンと勢いよく折った。
 夏の終わりを運んで、瀬戸内の風がやさしく頬を撫でていく。
 右側通行にご協力下さいと書かれた看板に従い、再び行軍を開始した。
 目的地の中央くらいのところで、南教授は反対方向から来る若いカップルに体当たりを喰らった。
「気をつけろ!」
 男がそう威嚇し、女の肩を抱いて通り過ぎて行く。携帯が歩道で乾いた音を立て、紙袋は無惨にも落下して、南教授の足元ですだちがバラバラと行方を失ってころがった。三十個ほどの鮮やかな緑色をしたピンポン玉のようなすだちが、歩道に設けられた網目にひっかかることもなく、思い思いの方向へ勢いを増してころがりつづける。
 南教授は奇妙な生き物を見るようにすだちの行方を追っている。気がつくと、『父、死す』がいけなかったのか、南教授は胸の前で十字を切っていた。十字を切りながら、南教授は自分がキリスト教徒でないことに気づいて唖然とした。
 気を取り直して海峡を見やると、こんな昼間だというのに、一匹の蛾が南教授の目の前をかすめてたよりなくゆらゆらと風に流されている。蛾は父を失ってしまったエリなのか、それともエリを失いたくないと抗っている孤独な老人の南教授なのか。
『父、死す』への返信。
『まるで還暦の打ち上げ花火だな』
 携帯のキーに向かってそう叩くと、南教授は思いっきり携帯を鳴門海峡に向かって放り投げた。静謐でだらりとした渦のはっきりしない海峡に携帯は放物線を描き、闇に吸い込まれるようにして一瞬にして消えていった。

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2008.10.05

パスタ

「君は臍の緒なんて食べるんだね」
 同僚にそう言われたことがあった。南教授は赤面して、つまんだシジミの身を椀に落とした。東京の人間はシジミ汁は汁しか呑まない。身は食わないのだ。新しい発見だった。確かに出汁を取られたシジミの身はエキスを抜き取られたカスのようで味などしない。まるで柔らかいゴムのように正体がない。シジミは赤面して必死に誤魔化し笑いを繕っている南教授そのものだった。
 今、南教授の目の前にあるのはシジミではなく、赤茶けた烏賊リングがパスタの上に乗っている。皿の底には赤い錆色をした汁がどんよりと光って不気味だ。
「不味い!」
初めてそこのレストランのパスタを食ったときの印象。それは今も変わっていない。それなのにいつもその店は客で一杯だ。イエスともノーとも言えない、そんな味音痴の客が気取ってお喋りをする場所、それがこの奇妙なレストラン『GAVO』なのだ。
 南教授もその一人である。きまって昼時はここにやってきて、不味いパスタにフォークを突っ込み、携帯で彼女にメールする。気に入らないのは、従業員の若者すべてがピアスをしていることだった。それさえ我慢すれば、パスタなど食わずメールに専念できる。
 南教授はメールを送り、パスタをフォークで持ち上げてみる。中から烏賊の下足(ゲソ)が3本出てきた。リングと同じようにエキスを吸い取られたようなその烏賊ゲソは、やはり赤茶けていて、奇妙な生き物のような気配を感じさせた。南教授はその生き物にパスタをかぶせ、ちょっとだけはみ出た烏賊ゲソを携帯で写し撮り、その出来映えを見て満足する。隣の席にいる二人連れの女が怪訝な顔をしてハンカチで口を覆っている。南教授は微笑み、パスタをフォークに絡め取って目の高さまで持ち上げてみる。パスタはパラパラと力無くフォークから抜け落ちて烏賊ゲソをすっぽりと覆い隠した。
「イカス烏賊人です」
 南教授は写メールにそう書いて彼女に送った。南教授はまもなく還暦を迎える。
 彼女は23歳。「イカス烏賊人」が理解できたかどうかは解らない。

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