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2009年4月に作成された記事

2009.04.05

未登録の男

鷺沢由比子は突然の携帯のコール音に驚いた。
バイトが忙しく、疲れて帰宅したばかりだというのに、いきなりの携帯コールである。携帯を手に取り発信者を見ると「未登録」と表示されている。コール音は止むことなく鳴り続けている。由比子はしばらくの間、ぼんやりと光って見える「未登録」の表示を見続けることにした。コール音に変化はなく、一定の間隔で見知らぬ人物がこの地球のどこかで由比子が出るのを待っている。その内、地球のどこかの見知らぬ人物は落胆と伴に由比子の仕打ちに屈し、携帯を切るに違いない。この手の電話に釣られてはいけないのだ。由比子はなぜかしら勝ち誇った気分に満足し、携帯をテーブルの上に置いた。
鳴り続ける携帯の音を無視して由比子は今日の一日を振り返った。
それにしてもあの客達は怪しかった。訝しく窺う由比子のことなどまったく眼中にないといった態度で、男の方は女に財布のことなどを懸命に話していたのだ。
由比子はコンビニでバイトをして1年になるが、いままでこんな不思議で怪しく不躾な客を見たことはない。
「財布を忘れてきた」
ビールやらつまみやらをレジに持ってきた男の第一声がそれだった。
女は由比子を一瞥してから困惑した様子で目を落とし、男に向かって悲しそうな表情をつくり、これほどの憐れみがあろうかといった顔で男を見つめていたのである。時間にして数秒だったように思うが、由比子が見た男の表情からして、男には数分の時の流れがあったように思われた。
「戻ろうか?」
「・・・」
「戻ると時間がなくなるね」
「わたしがお支払いするわ」
「それでも問題が・・・」
男は相変わらず由比子を無視して女に話しかけていた。
男の狼狽といったものを由比子は初めて見たような気がした。男の狼狽はなにかしら仕掛けた罠が、いや、罠というよりは魂胆、あるいは狡猾なタクラミといったほうがよいのかも知れないが、男は明らかにその目論見が狂ってしまったことに焦りを感じているようだった。狡猾な焦り。性急な高揚。猥雑な翳り。それが男の狼狽のすべてである。
「それじゃこれで」
女が支払いを済ませ由比子からレジ袋を受けとった。
「黒革の財布なんだよ・・・」
男は未練がましくそう言って、女の腕をとって出て行った。由比子のコンビニは繁華街からはずれた山の手に近いホテル街にあった。
「桜にはまだまだのようね」
女がいい残した最後の言葉が由比子の耳から離れないでいる。
テーブルの上では相変わらず止むことなく携帯が鳴り続けていた。
あの男がこの「未登録」の男だったら可笑しいのに。由比子は携帯にそっと目をやった。
気がつくと、由比子は無意識で携帯を手にとり、ぼんやりと頼りなげに光っているオンボタンを押していた。

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2009.04.04

黒革の財布

財布を忘れたことに気づかず岩清水右京は事務所を出た。
帰りは定期だけでこと足りるから、自宅の近くのローソンに寄ってはじめてその失態に気づいたのである。
財布は南米に出張した折、余ったドルが幾らか残っていたので、機内の客室乗務員が売りに来たのをこれ幸いに購入したものだ。ドルなど空港で円に換えたところでたいした額にもならないので、これを財布に換えるということはなかなかの妙案だった。サルバトーレ・フェラガモ。メイドイン・イタリー製の札入れ。製造番号らしきものまで打たれている。機内でワインを飲みながら、右京はひとり満ち足りた気分だった。
13年も前のそんな財布を思い出しながら、右京はローソンのおねえさんに頭を下げ、ポケットの小銭をかき集め、チューインガムだけを購入したのである。
こうしてひとりワインを飲み、しみじみと財布を眺めていると、黒革でできたなんともいえない渋い光沢とともに遠い歳月が鮮やかに甦る。
財布にふと目をやると、白の細長い紙片になにやら数字が書き込まれ、透明なセロハンテープで貼り付けられている。それはすぐに携帯の電話番号だと判った。そうなのだ、自分の携帯番号を忘れないようにとメモとして貼り付けておいたものだ。その番号をしげしげと、まるで不思議な生き物でも観察するかのようにしばらくの間右京は眺めていた。そして気がつくと、あろうことか右京は携帯をとりだし、その過去の自分の携帯番号のキーを押していたのである。0、9、0・・・とメモの数字を追っていく。邂逅。そんな古くさく赤面するような言葉までもが脳裏をよぎった。過去の自分に会ってみたい。切羽詰まったそんな想いが衝動的に右京を突き動かしたのかもしれない。陳腐なアナクロニズム。過去の右京なら一笑に付していたにちがいない懐古趣味。右京は携帯を顔の近くまで引き寄せると、なおも間違いのないよう慎重にうっすらと光って浮かんで見える番号キーを押しつづけた。
コール音が鳴っている。いつまでもいつまでも、際限なく現在と未来を行き来しつつ電子音は鳴り止むことなく鳴り続けている。長い間をおいて、ツッという音とともに、鳴り止まないコール音は、やがて彷徨い人が疲れ果てて倒れ込むかのように突如として消え、聞き覚えのない女の声が現れた。右京の胸は高鳴った。

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