黒革の財布
財布を忘れたことに気づかず岩清水右京は事務所を出た。
帰りは定期だけでこと足りるから、自宅の近くのローソンに寄ってはじめてその失態に気づいたのである。
財布は南米に出張した折、余ったドルが幾らか残っていたので、機内の客室乗務員が売りに来たのをこれ幸いに購入したものだ。ドルなど空港で円に換えたところでたいした額にもならないので、これを財布に換えるということはなかなかの妙案だった。サルバトーレ・フェラガモ。メイドイン・イタリー製の札入れ。製造番号らしきものまで打たれている。機内でワインを飲みながら、右京はひとり満ち足りた気分だった。
13年も前のそんな財布を思い出しながら、右京はローソンのおねえさんに頭を下げ、ポケットの小銭をかき集め、チューインガムだけを購入したのである。
こうしてひとりワインを飲み、しみじみと財布を眺めていると、黒革でできたなんともいえない渋い光沢とともに遠い歳月が鮮やかに甦る。
財布にふと目をやると、白の細長い紙片になにやら数字が書き込まれ、透明なセロハンテープで貼り付けられている。それはすぐに携帯の電話番号だと判った。そうなのだ、自分の携帯番号を忘れないようにとメモとして貼り付けておいたものだ。その番号をしげしげと、まるで不思議な生き物でも観察するかのようにしばらくの間右京は眺めていた。そして気がつくと、あろうことか右京は携帯をとりだし、その過去の自分の携帯番号のキーを押していたのである。0、9、0・・・とメモの数字を追っていく。邂逅。そんな古くさく赤面するような言葉までもが脳裏をよぎった。過去の自分に会ってみたい。切羽詰まったそんな想いが衝動的に右京を突き動かしたのかもしれない。陳腐なアナクロニズム。過去の右京なら一笑に付していたにちがいない懐古趣味。右京は携帯を顔の近くまで引き寄せると、なおも間違いのないよう慎重にうっすらと光って浮かんで見える番号キーを押しつづけた。
コール音が鳴っている。いつまでもいつまでも、際限なく現在と未来を行き来しつつ電子音は鳴り止むことなく鳴り続けている。長い間をおいて、ツッという音とともに、鳴り止まないコール音は、やがて彷徨い人が疲れ果てて倒れ込むかのように突如として消え、聞き覚えのない女の声が現れた。右京の胸は高鳴った。
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