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2009.05.30

金輪際

鷺沢由比子はそっと携帯電話のオフボタンを押した。
周囲が急に静かになった。周囲というよりは由比子の耳を通して鳴り続けていたテープが切れただけで、ただそれだけのことだった。
止まないコール音にしびれを切らして電話に出ると、いきなり「マチュピチュ」という朗読されたテープが自動的に流れてきたのだ。黒革の財布の男かと期待したがそんなことはあるはずがない。時間がもったいなかった。首がごろり。馬鹿な話だ。マチュピチュなどには興味はない。
由比子はベッドに身体を投げ出すと、今日の朝刊に目を通した。拾い読みをしていると、悩み事相談の記事に目がいった。由比子は他人の悩み事には興味など無かったが、あまりにも馬鹿馬鹿しいマチュピチュの朗読を強引に聞かされたせいもあって、ちょっとだけ拾い読みをしたくなっただけなのである。言い訳がましいが、由比子はそう自分に言い聞かせることにして記事に目をやった。

円満の秘訣などひとかけらもなし

回答の見出しが大きく踊っている。惹かれた。いうことなし。
由比子はもっともなことだと思った。マチュピチュ。首がごろり。リマで一泊して帰っただけでイタリア人妻に散弾銃で撃たれて死ぬ。汝が天命を呪え。円満な秘訣などひとかけらもなし。由比子の頭の中ではそのように繋がって行くのだ。
回答者は作家であった。由比子の知らない作家である。そんな知らない作家が、この世に円満な秘訣などひとかけらもないことについて懸命に回答しているのである。その涙ぐましい姿勢に由比子は心打たれた。相談者が言っているように、つまらない相談であった。出直しなさい、由比子なら一刀両断、木で鼻をかんでやる。
悩みといえるのか、相談はこうである。私は仕事一筋で生きてきた。その結果、家事も育児も子の教育もそっちのけ、勿論近所付き合いもなくすべてはかみさん任せ、たんなる給料運搬人に堕して生きてきた。気がつけば定年も間近となり、これではいけないと反省しきり。そんな折り、「破滅型」といわれて生きてきた先生でさえ奥様と四国お遍路を歩いておいでであったことを知った。感動しました。そこで老後の夫婦が、あなたたちのように円満に生きて行く秘訣、そのようなものがあればお教え願えないか、そんなところである。
由比子はティッシュペーパーで鼻をかんだ。先生でさえといったところが気になって胸が高鳴った。回答や如何に。由比子はお茶の入ったペットボトルを鷲づかみにしてその先を読んだ。先生の回答である。先生はあくまでも冷静であった。こうである。
先生はまずご自分の身の上を説明する。私には遺伝性の疾患がある。それで結婚は諦めていた。ところが48歳になり49歳の女と結婚した。決心した理由は女の係累に結婚が不可能な子がいたからだ。そして先生はピシャリと言う。私のことを「破滅型の作家」と思っておいでだが、私は破滅を志したことは一度もありません。由比子の胸はまたしても高鳴った。先生の回答は小気味いい。そして先生はこう続ける。38歳まで月収2万円の貧乏生活。駅のベンチが寝床である。だが、一度として失意を感じたことはなかった。結婚生活がつづくと嫁はんがいろいろ高望みを言ってくる。一戸建ての家が欲しい、銀座で高級なお洋服を買ってくれ、船で世界一周に連れて行ってくれ云々。先生はここで精神的な病にかかり、10年近く精神病院に入院するのである。そしてこの病を癒やすために四国お遍路の人となるのだ。先生は言い切る。「何か老後の夫婦が円満に生きるために、一夜漬けで出来る秘訣がもしあったら、教えていただきたいのですが」とのご相談ですが、そんな秘訣は人生にはひとかけらもありません。この世は苦の世界です。作家になることを決心してから、53歳で強迫神経症になるまで、1日4時間以上眠ったことは一度もありません。ただひたすら勉強するだけの日夜でした。由比子は高鳴る胸の内で先生に拍手を送っていた。円満に生きるための一夜漬けの秘訣。そんなものがあったら逆に君に訊きたいものだ。先生はこう言って木で鼻をかんでやればいい。由比子はこの知らない先生が急に好きになった。それにしてもこの質問者は無礼な人だ。この手の男に限って1日きっかり8時間は眠っているにちがいない。

いままでのところ、あなたはなまくらな人です。世の9割の人は、そういう人ですが。

先生はこう締めくくっていた。なまくらな人が効いている。9割の人は汝を戒めよ。
由比子は携帯を開いた。通話記録にマチュピチュの男の履歴があった。この男もきっとなまくらな人にちがいないのだ。黒革の財布の男はどうか。これに期待するものは何も無し。言語道断。
由比子は携帯をアマゾンに繋いだ。先生の名を検索したら数冊の著書が見つかった。その数冊の中でも特に由比子の目を惹いたのは、『金輪際』という短篇だった。由比子はこの金輪際を好んで使う男を知っている。
金輪際も悪くない。由比子は金輪際を注文することにした。

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