海峡を渡る風

東大沼の流山温泉は変わらぬたたずまいだった。
脱衣所にはやはり頭上からゆったりとジャズが流れて降り落ちる。
露天風呂に浸かって眼前の駒ヶ岳に目をやると、視界に入ってきたのは夕日に輝き黄金色に光るすすきだった。すすきは秋の到来を演出し、その後方にはっきりとした輪郭を浮かび上がらせている駒ヶ岳は寒々としていて秋そのものだった。
疲れきった身体を湯に浸すと、顔を撫でてとおりすぎる風もまた秋の気配を思わせる。
「千の風になってか・・・」
一人呟いてみた。
とうとう一人になってしまいました。札幌に転居して10余年にもなるSさんからそんなメッセージをいただいた。贈られてきた同人誌にそのメッセージはメモとして挟まっており、いつもの流麗な文字とは違い、そのメモの文字は力なく脱力しているようだった。主人を6月に亡くしたとあり、そしてとうとう一人になってしまいましたと続くのである。いずれは誰だって一人になるのだから、そんなに悲しんでばかりいてはいけませんよと、そんな独り言を呟きながらも、いやSさんには娘さんがいるからほんとうの一人とは違うなと妙な思いに捕らわれ、やや間があって、こんな屁理屈はまるで車谷長吉先生そのものじゃないかと嘆いてみたりする。
Sさんのご主人とは面識がなかったからかどうかは別として、そのとき不意に思い出されたのは坂本さんだった。
とうとう一人になってしまいましたとメモを寄こしたSさんと坂本さんはどうも結びつかないが、黄金色に揺れるすすきの向こうにある駒ヶ岳を見ていたら、すでに千の風になってしまった坂本さんの面影がそろそろとすすきにかぶさり、それが不思議とSさんに重なった、ただそれだけのことなのだろう。とにかくそのとき坂本さんを思い出してしまったのである。
坂本さんは川柳をたしなむお人だった。川柳だけにしておけばよいのに、小説にまで手を出したのがいけなかった。
「これはいけませんね」
道南を舞台にした坂本さんの小説を手にとり、生意気に言った。
「それよりは、川柳の評論こそ坂本さんだ」
「うむ」
坂本さんは複雑な表情を見せて相好をくずされた。
暴風に近い強風が、沖に停泊中の連絡船のブリッジの舷窓を叩いていたから、このときの二人は当直中だったように思われる。暴風が津軽海峡に接近する。ダイヤを切るから沖に停泊して待機せよ。当時はこんなふうにしてしばしば運航が切られた。4時間ごとの当直交代。そのときは坂本さんと当直中にこんなやりとりをして暴風圏の通過を待ったにちがいない。
「ここはソイがよく釣れるそうだよ」
のんびりした声である。どこから持ち出してきたのか、釣り竿を手にした坂本さんが言った。そしてリーサイド、つまり風下にあたる舷窓のガラス戸を開き、釣り糸をたれたのである。風に流されながらもするすると釣り糸は闇の中へ落ちていった。まるでそれは、蜘蛛の糸がふわりふわりと頼りげなく深夜のおぞましい奈落へとゆるやかに落ちていく小説の世界をみるようだった。
そんな坂本さんを見やりながら、そういえば坂本邸で実に旨いソイの刺身を食ったことがあるのを思い出していた。
そのソイは、坂本さんよりはいかにもしっかりした息子さんが釣ってきたものらしく、達者なその息子さんがさばいて書斎に運んできたものである。刺身はいろいろ食してきたが、これほどに美味い刺身を食べたことはそれまでなかった。
「釣れますかね、ソイは?」
「大丈夫!」
坂本さんが自信を持ってことにあたるときは注意を要する。やはり、1時間が経っても釣り糸はぴくりともしなかった。暴風圏はいよいよ接近し、波高の大きくなった三角波が夜目にもはっきりした形で確認することができた。かたかたと小刻みに波浪は客も車両も無い連絡船の舷を一定のリズムを刻みながら叩きつづけた。
「もうちょっと遠くへ投げてみてはどうです?」
「うむ、それもそうだね」
強風に怯むことなく、坂本さんは釣り竿を手元に引くと、開かれた舷窓の外へ向かっておもいっきり釣り糸を放った。一瞬光ったテグスは、やはり漆黒の闇の世界へ吸い込まれるように消えてなくなった。
そのときだった。カチンといった金属音が闇夜に目をこらす二人の耳に届いた。少しの間沈黙があり、そして二人は顔を見合わせて笑った。その笑いは実に気まずく、格好の悪い笑いであった。坂本さんの放った釣り糸は、強風に押し流され、前方にある甲板におもりごと無惨にもたたきつけられてしまったのだった。
坂本さんは観念した。僕も観念した。
それ以来、僕はソイの刺身を口にしたことがない。
大沼に吹く千の風は、そんな想いとともに津軽海峡を越えてやってくる。
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