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2009.10.31

サルティホテル(2)

Night

サルティホテルのフロントは2階にある。
1階はなぜかスポーツ用品店になっていて、ショウウインドウから見える店内は明るく、若者が好みそうなダウンパーカーやジャケットが品よく飾られている。南に面してなだらかな石造りの階段があり、そこを上がって入り口のドアを右に折れるとこぢんまりしたカウンターがあって、そこがサルティホテルのフロントだ。長椅子が一つだけ置かれているだけで、ただそれだけの愛想のない、まるでホテルとは思えない受付になっている。西に面して細長いつくりのカフェレストランがあり、そこからテラスが突き出ていて、ここはオープンカフェになっている。カフェレストランといい狭いつくりのカウンターといい、それよりもロビーがないという窮屈さは、およそホテルの体をなしているとは思えない構造で、そこがサルティホテルをどこか謎めいたものにさせていた。
初めて宿泊したとき、狭いカウンターの中にそろいのスーツを着た二人の男がいて、そのうちの一人が笑いもせずに応対したことも不思議な印象だった。
予約もない飛び込みだと告げると、カウンターの男は妙なつくり笑いを浮かべて宿泊用紙を出して寄こした。記入を済ませて返すと、8階の部屋の鍵を渡され、僕は一人でエレベーターのスイッチを押し、音もなく開いたドアに吸い込まれて籠の中に収まり、8階で降りて勝手に802号室のドアを開けたのである。なにからなにまで一人でやらされることに不満はなく、格式のあるお節介は苦手だから、むしろ勝手に行動することの自由さが僕には心地よかった。その意味ではサルティホテルにはなにかしらの期待がもてたのだが、それがどのような期待であったのかはそのときは当然ながら知るよしもなかった。

今、僕はそのときと同じ802号室にいる。
初めての時に応対したカウンターの妙な男はあいかわらず妙な男で、僕が802号室を指定して予約するといつも快く応じてくれた。ジャケットの胸ポケットに張り付いているようなネームカードには男の名前が書かれているが、僕はその男の名前を知ることはない。いや、僕はあえてその男の名前を憶えようとはしないのだ。まるでそれは僕と男の暗黙の了解のように、男もまた僕の名前を事務的に知るだけで、それ以上は立ち入って関わろうとは思っていないようだ。
漆原先生に治療された奥歯のある頬をさすりながら、僕はいまはもうすっかり僕の部屋になってしまったようなその802号室をひと渡り眺めた。液晶テレビの置かれた位置も、木目調に仕上げられた冷蔵庫の配置もいつもどおりで変わった様子はなかった。
部屋の窓は南に面していて、レースのカーテンを引くとビルが建ち並んでいるのが見え、そのビルの谷間からは僕のかつて勤めていた事務所が臨め、さらにその奥にメリケン波止場がかすかに確認できた。
僕は鏡に向かって口を開け、指で唇を押し広げ、漆原先生が歯科器具を巧みに操って削った奥歯を映し出してみる。
「お母さんは西宮の人?」
僕はそんなことをいきなり訊ねてきた漆原先生を思い出していた。
「いえ、新潟です」
「そう。親父がね、学生の頃に知り合った女性に似ているというんだ」
「僕がですか?」
「そうなんだ。医学生だった頃のずいぶん昔の話なんだけどね」
そういって漆原先生は、まるで自分のことのようにはにかんでみせた。
「ほら、あそこにいるのがその親父だよ」
漆原先生の指さす方の診察台に白髪の老人が歯科器具を持ち、こちらを向いて笑っていた。
その女性というのが僕の母だったとしたら、漆原先生の親父という人はどうするのだろう。診察台で喘いでいる患者をそのままにして僕に近寄り、お母さんは息災ですかとでも訊いてくるのだろうか。
「母ですよ、そのひとは」
いたずらにそんなことを言って笑ってやりすごすのも悪くなかったかもしれない。麻酔が効いて、まだしっくりこない歯茎を指でつつきながら、僕はそんなどうでもよいことを考え、洗面器に向かって唾を吐いた。血の滲んだ唾液はうっすらと赤くぼやけ、開いた蛇口から勢いよく流れ出た水とともに排水口に吸い込まれて消えていった。
僕は部屋にあるテーブルにノートパソコンをおいた。そのテーブルもやはりいつものところにいつものように配置されている。
コードを差し込み電源スイッチを押し、画面が立ち上がるのを確認してからネクタイをとった。ひっきりなしに行き交う車や人の群れをピッシリと閉鎖された窓から眼下に見下ろしていると、その音のない騒然とした雑踏がまるで自分には縁のない世界に思え、たった今、そこから逃避してきたことにわくわくするような歓喜を実感していた。
僕はたしかに逃避してきたにちがいない。僕が今やろうとしていることは逃避ともいえるが、それはまさに世間からの脱出であるに違いないのだ。僕はこのホテルで僕ではない僕になろうとしている。

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