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2009.10.24

サルティホテル

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その歯科医院は旧居留地にある。
もう5年も前になるが、僕は看板もないその歯科医院で治療を受けた。
奥歯にかぶせてあった冠が勤務中にポロリと取れてしまい、あたふたしていると、それならすぐそこにある歯科医院へ行くといいと同僚が教えてくれたのだった。
「ただね、看板はないよ」
同僚はそうつけ加えた。
看板がない歯科医院。そんな医院があるのか。僕は不思議に思いながらも、同僚が書く簡単な医院への順路をながめていた。
そのメモを手に事務所を出ようとする僕の背に、
「そこは紹介がないと駄目なんだよ」
と同僚の声が追い打ちをかけた。看板がないから、つまりどのようにしてここへやって来たのか、誰から紹介されて来たのか、そんな理屈らしいのだ。
その間にも、冠の剥がれ落ちた奥歯は痛みを伴って僕の気分を錯乱させた。
神戸市立博物館の前を通って六甲山に向かって北へ歩き、三井住友銀行の前で立ち止まる。ブティックのショウウインドからマネキンがつまらなさそうに微笑んでいる。どうもその隣の入り口が目的の歯科医院へ通じているらしい。たしかに看板らしきものは見あたらない。
僕は左手を痛みの走る頬にあて、入り口を抜けると闇雲に地下への階段を一気に駆け下りた。地下にある通路は薄暗く、こんなところに歯科医院はあるのかと不安になったが、迷路のように入り組んだ通路をあてもなく歩いていると、古びたペンキの剥げ落ちた木製のドアが目にとまり、そこには漆原歯科医院と書いてあったのである。

漆原先生はお元気なのだろうか。
僕は5年前と同じ三井住友銀行の前で立ち止まり、あいかあらず愛想のないショウウインドウのマネキンに一瞥をくれ、旧居留地をまばらに行き来する若者たちを目で追った。
ビルの自動ドアを抜けて中へ入ると楕円のカウンターがあり、年配のガードマンが一人、退屈そうに書類に目を通していた。ガードマンを無視して地下へ下り、見覚えのある廊下を左に折れ、そこからさらに右に曲がって、僕は漆原歯科医院と書かれてある古びたドアの前に立ったのである。
ドアを開けて中に入ると、鼠色したレザーの長椅子が置かれた待合所があるのだが、患者らしき人は誰もいなかった。
「いらっしゃい」
受付の小窓が開いて、年配の女性が声をかけてきた。聞き覚えのある嗄れた声である。
「予約を入れていた南です」
そう告げると小窓の中の女性は、どうぞ中にお入りくださいと姿を見せずに応えた。
診察室のドアを開けて中に入ると、白衣を着た背の高い男が歩いてきて、
「ああ、あなたでしたか」
と笑いながら近づいてきた。そしてにっこりとほほえんだ。漆原先生だった。
「たしかお近くでしたね、勤務先は」
「いえ、今は梅田です」
「え? 梅田?」
「そうです、梅田です」
「梅田からわざわざここまで?」
「はい」
漆原先生は少しも変わっていなかった。
無精髭にところどころ白いものが混じっていても、張りのある声は5年前と変わらずよく通って澄んで聞こえた。
診察台に座らされ、数枚のレントゲン写真を撮られ、口をすすいで僕は深呼吸を繰り返した。
「これはひどいね」
「はあ・・・」
「壊れている」
「歯が?」
「うん、壊れている」
表情を変えずにそういうと、口をすすいで深呼吸している僕にかまわず、歯科器具を取り出し奥歯を削り始めた。キインキインと唸りつづける電気器具を軽快に操り、間をおいてうがいをさせ、そして不安に駆られる僕を無視して麻酔注射を奥歯の近くに無造作に射した。尖った痛みが一瞬頬を抜けた。
「梅田からだと大変だから」
「え?」
口を開けながら応えるにはそれが精一杯だった。
「通うのがね・・・」
「はあ」
「一気にやってしまおう」
「はあ」
僕の頭からは夥しいまでの汗が噴き出し、前髪をつたって額にまで流れ落ちるのが判った。
相変わらず電気器具はキインキインと唸りつづけ、遠のきそうになる意識の中で、僕は何故か不思議と、まるで歯科治療に関係のない旧居留地界隈の街並みを頭の中に描いていた。そしてその街並みを地図に写し取り、僕はゆっくりとその地図上を歩きはじめるのだった。
漆原歯科医院のあるビルを出る。右に曲がって北へ向かって歩くと左には大丸百貨店がある。その向かいの道路をさらに北へ向かって歩くと左手にあるのはビヤホールのミュンヘン大使館だ。僕はここで大量のビールをあおったことを思い出す。そこをさらに北へ進むとJRの高架があり、続いて阪急の高架が姿を現す。阪急の高架下を右に折れて歩き続けると立ち飲み屋があり、その向かいはお世辞にもきれいとはいえない居酒屋ゴン太がある。ジャズを聴かせる喫茶もこのあたりの高架下だ。高架を抜けて北へさらに突き進んで行くと、そこはもう雑居ビルの集中する歓楽街だ。赤や青や黄色やそんな光の混在したネオンが洪水のように人々を呑み込んで暗躍しているさまは、まるで巨大化した妖怪の棲む魑魅魍魎とした異界をさえ想起させる。
僕の意識はそこで再び漆原歯科医院へと逆戻りする。そして再び僕は漆原歯科医院のあるビルを出て右に曲がり、大丸百貨店の前の通りを避け、筋を一つ東へ寄った通りを北へ向かって歩きはじめる。すぐに現れたのはサルティホテルだ。漆原先生の操る歯科器具の耳障りな金属音を聞きながら、僕はこの不思議なサルティホテルでの出来事を思い出していた。
僕はときどきサルティホテルに一人で泊まる。
メリケン波止場にある船の形をした高級ホテルも悪くないが、街の中心地になりを潜めるように、まるでホテルらしからぬ風情で佇んでいるこのサルティホテルはどことなく妖しく、中に足を踏み入れたとたん、僕はたしかに異次元の世界へ迷い込んだような、そんな心地よい思いに捕らわれてしまうのだ。

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